三思一言たてもの探訪Ⅱ(山城6) 2021年09月14日

修学院離宮

訪問:2016夏・2020秋・2021初夏

◆れきし

  修学院離宮は17世紀の中頃、比叡山山麓に後水尾上皇の山荘として造営されたものです。上皇は洛北の長谷や岩倉に御茶屋をもっていましたが、大規模な庭をもつ理想的な別荘をつくろうと企図し、現在の地を選び、敷地模型を作って自ら指揮し、一木一草まで目を配りました。これらの計画から造営、そして完成後の姿や行幸・遊興の一連は、鹿苑院(金閣寺)主鳳林承章の日記『隔蓂記(かくめいき)』から、詳しく追うことができます。

 下御茶屋と上御茶屋の隣雲亭ができたのは万治2年(1659)で、大規模な堰堤を築いて全体が完成したのは寛文元年(1661)、上皇63歳の頃のことです。上皇は自らの理想を実現した壮大な庭園を気に入り、行幸は85歳で亡くなるまで七十余回に及んだといわれています。

 後水尾天皇没後は江戸時代中期に霊元上皇、江戸時代後期に光格天皇の行幸がありました。後水尾上皇造営の建物として残るのは窮邃亭のみで、寿月観をはじめとするほとんどは、文政7年(1824)に徳川家斉が光格天皇の行幸に際して大修理・復興した姿が基調となっているそうです。

 中離宮は、上・下御茶屋が完成して約10年後、上皇の皇女朱宮(あけのみや)のために営まれた山荘が始まりで、後に林丘寺門跡となっていたのを、明治18年(1885)に一部を併合(楽只軒・客殿)したのものです。以来下・中・上の三つを合わせて修学院離宮と称されるようになりました(宮内省→宮内庁管轄)。これらをつなぐ赤松並木の苑路は、明治天皇が行幸したさいに畦道を拡幅したもので、「御馬車道」ともよばれています。

◆見どころ

 大自然を取り込んだ開放的な空間は他に類がないスケールで、上御茶屋から見下ろす眺望は圧倒的な迫力。北西には岩倉から鞍馬・貴船、南西には愛宕から天王山までの山並みを見晴らすことができます。付近の棚田は昭和39年に宮内庁が買い取り、今も農地として利用されていて、浴龍池正面の松ヶ崎・宝ヶ池などの山々も管理されており、後水尾上皇が見た景色をまさに追体験することができるのです。

 御茶屋の建物は各々の個性が秀で、苑路(門・生垣・橋・瀧・石段・灯籠)は豪快かつ雅趣豊か。これに対し中離宮は、尼門跡の由緒にふさわしく華やかで上品。御所から移築された東福門院ゆかりの客殿には有名な霞棚があり、奥ゆかしい襖絵や杉戸絵にも目を奪われます。

 

-参考文献-

・『桂離宮・修学院離宮』 京都新聞出版センター 2004年

・西和夫『京都で建築に出会う』 彰国社 2005年


下御茶屋御幸門

下御茶屋寿月観(扁額は後水尾上皇宸筆)

寿月観一の間(上段の間)


寿月観 一の間から三の間

中御茶屋表門

中御茶屋 楽只軒と客殿


中御茶屋 楽只軒 

中御茶屋 楽只軒 一の間から二の間

中御茶屋 客殿 霞棚


中御茶屋 客殿 二の間 

中御茶屋 客殿杉戸 山鉾

中御茶屋 客殿杉戸 鯉


中御茶屋 客殿 網干の欄干

松並木の苑路と御茶屋山

上御茶屋 大刈込


上御茶屋御成門

上御茶屋隣雲亭からの眺望

雄瀧


千歳橋

窮邃亭

窮邃亭


窮邃亭 上段

浴龍池から隣雲亭遠望

格別の一木一草