三思一言たてもの探訪Ⅲ(拾遺1) 2021年8月23日

水前寺成趣園・古今伝授の間

訪問:2011年・2018年

◆れきし

 水前寺成趣園は、熊本藩主細川家の御茶屋(別業)の跡地です。西南戦争による焼失により荒廃が進みましたが、有志によって細川家歴代藩主を祀る出水神社が祀られ、その庭園として整備されました。

 池畔の一画、酔月亭跡に佇む「古今伝授の間」とよばれる茅葺きの建物は、元々八条宮家の学問所であったものを、八条宮家第2代智仁親王が火災の難を憂慮して、領地の一つ開田天満宮(長岡天満宮)に移して御茶屋としたものを、さらに明治維新の時に解体して熊本藩に下賜されたものです。

 部材は一旦藩の京都屋敷に運ばれましたが、そこが取り払いとなり、大坂の倉庫に運ばれて、長らく用達商人の清水常七が保管していました。その常七の子・清水勉の献納により、大正元年(1912)に水前寺公園に再建したのが現在の「古今伝授の間」です。部材と共に桂宮家が添えた「見取図」が復元の根拠で、これは長岡天満宮古記録写しの「長岡天満被移置御先祖宮従細川玄旨古今集御伝授之御殿図」に相当することはまちがいありません。この図があったからこそ、長岡天満宮にあった時の主要な間取りを正確に再現することができたのです。屋根は専門家に諮り、桂離宮や大徳寺龍光院等を参考にして、茅葺入母屋となりました。

◆見どころ

 八条宮智仁親王が細川幽斎から古今伝授を受けた学問所という由緒を、桂宮文書(宮内庁書陵部蔵)や長岡天満宮文書などから確実に裏付けることができます。建築史家西和夫の精密な考証と近年の解体修理の分析から、慶長期の数寄屋風書院を伝える建物であることが明らかとなり、長岡天満宮における改修の経過も具にわかります。主要柱と筬欄間は慶長の部材で、床框や花頭窓は江戸時代の部材が引き継がれており、長岡京市教育委員会作成した復元図は、このような学術的な調査をふまえて作成されました。

 智仁親王が下桂の御茶屋(桂離宮)造営に着手したのは元和元年(1615)ですから、この建物はそれを遡る最も古いものといえるでしょう。それを踏まえると、簡素でありながら気品漂う雰囲気が感じられます。そしてこの空間のなかでも格別の意匠が、床の間に続く次の間の付書院(花頭窓)です。

 花頭窓は元々禅宗の寺院に用いられるものですが、安土桃山時代になると書院や城の天主の意匠として流行するようになります。慶長期の類例をあげると宇治平等院塔頭養林院書院(伏見城より移築)、松島瑞巌寺書院(慶長14年)、江戸時代初期では西本願寺書院「装束の間」・同飛雲閣などが代表例です。それらを見学してもう一度「古今伝授の間」をみると、若き日の智仁親王がいち早く取り入れた、新しき時代の文化の粋を想わずにはいられません。

-参考文献-

・伯爵細川家『改訂古今伝授間の由来』 1935年 熊本県立図書館蔵

・西和夫「古今伝授の間と八条宮開田御茶屋」『建築史学』第1号 1983年

・京都伝統建築技術協会『古今伝授の間修理工事報告書』 公益財団法人永青文庫 2011年

・百瀬ちどり「古今伝授と八条宮屋敷」 2018年

・百瀬ちどり「長岡大明神と『由緒ある建物の流転』」 2019年

・百瀬ちどり「水前寺成趣園・古今伝授の間」 2019年

・百瀬ちどり「古今伝授の舞台へ-勝龍寺城天主と開田御茶屋-」 2021年





長岡天満宮境内図 京都府立京都学・歴彩館蔵 京都府庁文書 明3社寺録

長岡天満宮境内 「古今伝授の間ゆかりの地」

「温故知新」は細川護熙氏の揮毫