三思一言2020

周遊ガイド

◆ベースの写真は、嵯峨嵐山文華館に於て撮影させていただきました。

中井本「洛外図屏風」から、( )で貼札の地名を補記しました。

◆見当に必要な地名を、適宜注記しました。(*の黄文字)。

◆「洛外図屏風」各本の関係や年代について知りたい方は、下記ページをご覧ください。

◆クリックで画像を拡大できます。

 

  


⑴第7扇 神足・勝龍寺 2020.05.06

 永井直清が、慶安2年(1649)に高槻へ転封された後の様子で、神足館は若宮八幡宮と神足町にその名残りがみられるのみです。永井直清在城時につくられた西国街道の家並みと、屈曲する道の描写をお見逃しなく。

 この場面を眺めると、神足ー勝龍寺城跡ー勝龍寺が一体であった歴史が彷彿と思い浮かびます。犬川の対岸に、恵解山古墳の丘が描かれていることにも注目しましょう。



神足町

勝竜寺城公園

恵解山古墳公園


⑵第7扇 久我縄手 2020.05.06

 小畑川の東を見ましょう。神足から東に延びる通称「松の馬場」が写実的に描かれています。この道は、勝龍寺城や神足館の大手です。

 「松の馬場」の東は久我縄手に連結していることにご注目。久我縄手は、平安京ー鳥羽ー山崎を結ぶ古代の直線道路です。『太平記』(巻九、「山崎攻事付久我畷合戦ノ事」)では、名越高家と赤松円心の激戦が物語られ、「名越尾張守跡」の塚は史跡として記憶されました。

三思一言古代の直線道路ー久我縄手ー  YouTube松の馬場から久我縄手


久我縄手 長岡京市神足

久我縄手 長岡京市神足

久我縄手 長岡京市神足


⑶第7扇 開田天神・八条殿茶屋 2020.05.13

 開田天神は中世より祀られてきた開田村の産土神。寛永15年(1638)、八条宮家第2代智忠親王は大池をつくり、それまで村の中にあった開田天神を、小高い丘の上に移転しました。またそれと共に、初代智仁親王が細川幽斎から古今伝授をうけた座敷を京都から移し、御茶屋(別荘)として整備。ここは、幽斎ゆかりの勝龍寺城跡を眼下にする絶好のポジションです。

 造営間もないころの社殿や、大池の堤・樋門が細かく描かれていることに注目しましょう。長岡天満宮とよばれるようになるのは、元禄の霊元上皇による再興以降で、この時に御茶屋も大池の畔に移されました。

 



梅の長岡天満宮

開田御茶屋跡

八条ヶ池の水門 江戸時代と同じ場所!


⑷第7扇 小倉明神 2020.05.13

 小泉川の右岸、くねくねとした参道の奥に、拝殿と一間社流造の本殿がみえます。小倉明神は、周辺の村を氏子とする産土神で、享保2年(1717)の絵馬からは、猿楽や神輿渡御で賑わう華やかな祭礼の様子がうかがえます。

 木製の鳥居2基は、元禄年間に石鳥居となりました。昨年に社殿の修築がなされ、今もなお乙訓の大社としての伝統と、森厳な境内の雰囲気を感じることができます。

◆三思一言小倉神社の宮座と神輿渡御


祭礼絵馬

元禄の石鳥居

御神木


⑸第7扇 柳谷かんのん 2020.05.23 

 下海印寺村から小泉川を渡り、金ヶ原村の傍を通って柳谷かんのんへと、九十九折りの道が描かれています。楊谷寺の伽藍は元禄期に整備され、近代になってさらに拡張されましたので、江戸時代前期のようすがわかる貴重な1場面です。

 ここは中井本には描写されていませんので、両本の関係を考える重要ポイントの一つでもあります。

◆三思一言◆柳谷道の町石地蔵




⑹第8扇 山崎町

 淀川と天王山にの間、西国街道に沿って家並みが連なる。山頂には「古城」。その下の「天王八王寺」へ、西国街道から急峻な参詣道が延びています。円明寺村の傍に連なる台形の形は、古城(曲輪)の表現。

 離宮八幡宮を過ぎるとそこは山城と摂津の国境で、関戸明神があります。淀川へ延びる松並木の「橋本道」、小泉川河口の「きつねの渡し場」、勝竜寺川(小畑川)河口の「一軒家(問屋)」なども見どころ。長大な洛外図屏風左隻は「みなせ川」で終わります。

 




⑺第8扇 黒門

 西国街道を西へ、山崎町の入り口である黒門付近のようす。道が屈曲し、冠木門が描かれています。門の側からは、天王八王寺を経て山崎城に通じる道が延び、またすぐ外は久我縄手との分岐点ですので、ここが軍事的にも重要な場所であったことがわかります。

 円明寺村・山寺村から黒門に連なる曲輪(台形の表現)の存在も納得できるでしょう。この曲輪跡を利用して観音寺(山崎聖天)が建てられたのは、屏風がつくられた後の元禄時代のことです。

YouTube山崎聖天・大山崎瓦窯跡



⑻第8扇 宝積寺

 天王山の中腹に造営された境内や、「古城」(秀吉の山崎城)との関係がよくわかります。仁王門・三重塔・本堂は、秀頼により慶長9年(1604)に修造されたもので、現在もその寺観が引き継がれています。三重塔の向かい側の建物は鐘楼でしょうか?(梵鐘は永正16年鋳造)

 宝積寺は聖武天皇の御祈願所として行基が開創したと伝える、乙訓きっての古刹。山崎の由緒深き歴史を伝える名場面の一つです。

YouTubeさくら満開 2020宝積寺




⑼第8扇 離宮八幡宮

 西国街道に大きく張り出した離宮八幡宮の境内。寛永11年(1634)、幕府による大きな造替によってつくりだされた景観です。工事は京都所司代板倉重宗・淀城主永井直清・勝龍寺城主(神足館)永井直清が担当。

 境内は大きく3区画からなり、入り口に鳥居、拝殿・鐘楼・宝塔、奥に本殿があります。これらは禁門の変で焼失し、一部は東海道線に割かれましたが、今もなお往時のようすを感じることができます。

YouTube離宮八幡宮・関大明神



周遊の続きをお楽しみに