三思一言2018.03.05

「洛外図屏風」の年代指標

制作年代と景観年代

 絵画を歴史資料として扱う場合には、描かれている内容から、年代をどのように比定するかが鍵となります。多くの場合、粉本とよばれる下書きや手本をもとに、制作の目的や事情によって任意的な改訂や作為が行われるからです。過去の図像を踏襲した部分、新たに画き換えた部分、新たに画き加えた部分、画き落とした部分が混在するので、景観年代は時間の幅があるのが普通なのです。制作年代は、それらの全体から最も新しい要素を抽出して、「これより以降」と目処をたてるのが、歴史的な読み解きのコツとなります。

 

◆年代指標のあれこれ

 年代指標の求め方はむずかしいのですが、読み解きの醍醐味が味わえる最も楽しい作業です。特に文献史料で裏付けられる建物や人名、時の権力者がかかわった大きな事象が決め手となります。たとえば四条南座・北座と鴨川の寛文堤、知恩院新門前通り、仁和寺と妙心寺、伏見奉行水野石見守屋敷、祇園本多隠岐守屋敷等々、京都ファンの私は時間を忘れて眺めています。

 これらは、新シリーズ“周遊「洛外図屏風」”でご紹介することにして、ここではトップとして興聖寺と萬福寺をとりあげておきましょう。

 左隻第1扇に描かれる興聖寺は、慶安元年(1648)に永井尚政(1587-1668)によって再興された曹洞宗の寺院です。尚政は徳川秀忠の側近で、寛永10年(1633)に淀城主となり、上方と江戸を往復していました。父直勝の菩提を弔い、自らの墓所とするため、宇治河畔、朝日山の麓に壮大な伽藍を築いたのです。「洛外図屏風」には、創建当初の様子が、参道・本堂・回廊・鐘楼を初め、石塔の一つ一つまで細かく描かれています。

 宇治川を下った五ケ庄大和田の地に、黄檗山萬福寺が誘致されたのは万治3年(1660)のことです。明から招聘されて来日した隠元隆琦(1592-1673)は、老中など幕府要人や後水尾上皇から篤く帰依を受けました。伽藍建設着手に向けた動きを、京都所司代牧野親成の家臣、原正継が書き残した日記から紹介しましょう。

 

 万治3年4月29日、隠元禅師寺地検分のため五味備前守殿同道のもと、大工中井主水守正知が来る。同年8月16日、老中松平伊豆守信綱が寺地御検分に来る。京都所司代牧野成貞とその家臣らが同道。同年12月17日、昨日大和田村にて隠元寺地を引渡すため中井主水守らが来る。寛文元年(1661)閏8月9日、隠元が去29日移住する。同年9月29日、小出越中守が同道して隠元禅師が来る。新地を黄檗山萬福寺と号す。

 

 京都奉行五味備前守豊直が、家督を継いだばかりの中井主水守正知とともに、現地を訪れたことがわかります。松平信綱は、隠元が将軍拝謁のため江戸へ入った際、幕府より慰労に遣わされた人物。新寺開創を伝えたのは家綱側近の酒井忠勝で、以後最大の援護者となります。幕府要人や諸山参集のもと、盛大な祝国開堂が執り行われたのは寛文2年2月で、寛文6年には、高さ約2尺の金塔に納められた仏舎利五粒ほか造営費用が、後水尾上皇から下賜されています。ところが、中井本「洛外図屏風」は「隠元寺地」の貼札のみで、造営着手前の様子が描かれているのです。つまり「洛外図屏風」祖本は、萬福寺の伽藍がつくられる前に制作されたとみてまちがいありません。だれでもが、真っ先にとりあげる年代指標です。さらに興聖寺再興の年代をあわせると、慶安元年以後、萬福寺地付与の万治3年までの間と絞り込めます。ただし、ここだけで全体を判断すると落とし穴にはまりますよ。このような緻密な検討を、できるだけたくさん積み重ねていきましょう。。

 永井尚政が宇治川遊びに隠元を招くなど、このころ興聖寺と萬福寺はさかんな交流がありました。やっと到来した平和で安定した時代のなかで、異国からやってきた隠元の新しい宗教や学術に酔いしれた人々の姿を思い浮かべると、「洛外図屏風」の描写はとても興味深いものがあります。

 

-主要参考文献-

・『隠元渡来-興聖寺と萬福寺-』宇治市歴史資料館 平成8年

・「原日記」『舞鶴地方紙』第6号 1967年

興聖寺 ~宇治川と朝日山~

 興正寺は、日本曹洞宗最初の寺院として深草(京都市伏見区)に建立されました。荒廃していた伽藍を宇治朝日山の麓に再興したのが淀藩主永井尚政です。以後永井家の菩提寺として、当時のままの趣を伝えています。

宇治河畔の入り口

庭園と僧堂

琴坂から山門へ

開山堂と墓所

山門から本堂へ


黄檗山萬福寺

 中国福建省から渡来した隠元が、徳川幕府や後水尾上皇の尊崇を得て開創された寺院です。中国の明朝様式でつくられた異国情緒たっぷりの大伽藍です。訪ねた時、開山堂では独特の法式が執り行われていました。

天王殿

開山堂

天王殿の布袋さん

回廊と梵鐘

大雄宝殿