三思一言2018.03.25

江戸時代の乙訓と村絵図

◆村の自治と絵地図

 江戸時代、京都所司代京都町奉行の支配のため、絵地図は重要な役割を担っていました。しかし絵地図は支配者だけがつくっていたのではありません。

 権力や領主のお膝元・京郊の村々は、中世から村の自治的な力が強い地域です。江戸時代になると村請制のもと、村々は田圃・山・用水など、あらゆることを自ら掌握・管理していました。町奉行所や領主の支配も、村々が提出する指出帳・名請帳・明細帳などがあって初めて実現したのです。村方は、町奉行所や領主の求めに応じて、また村の自治のため、さまざまな絵図をつくりました。「洛外図屏風」の理解のため、絵地図が普及した時代を、村方の視点で見ておきましょう。

 

◆さまざまな村絵図

 これまで私が出会った村絵図で、最も古いものは元禄期のもの(井ノ内村絵図)です。京都町奉行所の成立を機に、村方文書の仕様・提出・管理のシステムが調えられ、文字までもすっかり変わるのは驚きです。私は、延宝から元禄にかけて、今認識する「江戸時代」の社会が定着したのだと思っています。

 ここでは、村方が描いた代表的な乙訓の村絵図を紹介します。まずはなんといっても「神足村微細絵図」でしょう。この絵図は、宝暦13年(1763)に神足村が作成したもので、小畑川を挟んだ東西2枚からなるとても大きな絵図です。一筆ごとに地番・地目・面積・石高・名請人を書き、領主ごと(幕府領・乙訓寺・実相院)に色分けされています。作成年が明記されていること、詳しさ、美しさ、関連する帳簿の存在から一押しの村絵図です。これを初めて目にしたときの感動は忘れられません。

 「古市村・神足村絵図」は、古市区に伝来した江戸時代中期のものです。太閤検地の時点で、古市村と神足村は村切りされなかったので、村境が入り組んでいた珍しい例です。「神足村微細絵図」をコンパクトにしたような内容ですが、おもしろいのは「常水場」の張り紙が付されているこです。村の東南部は常に洪水の被害をうける低湿地でしたので、張り紙を被せたらその範囲がわかるよう、飛び出す絵地図になっています。立命館大学の村上晴澄さんが、くわしく紹介されていますので、ぜひ参照ください。

 「長法寺村絵図」は、手元で使う小さなものですが、村の特徴がよくわかる私のお気に入りの絵地図です。庄屋年寄の連名がありますので、町奉行の巡見のさいにつくられたものかもしれません。

 これら3点のほか、目的に応じたさまざまな絵地図があります。乙訓地域は、早くから綿密な古文書調査が行われ、その保存・公開が先進的に取り組まれてきました。関連資料をもとに、歴史的な絵地図研究ができる恰好のフィールドです。

 

-参考文献-

・長岡京市教育委員会『長岡京市の古文書』1999年

・向日市文化資料館『むこうし・おとくにの絵図・地図・写真』2013年

・村上晴澄「近世村絵図の常水場と水害の関係について」『立命館地理学』第24号 2012年

 

神足村微細絵図(部分) 2舗1組 長谷川太一家文書 長岡京市教育委員会『長岡京市の古文書』より

古市村・神足村絵図 長岡京市教育委員会 大山崎町歴史資料館『西国街道をゆく』より

長法寺村田面絵図 佐藤久夫家文書 長岡京市教育委員会『長岡京市の古文書』より