三思一言2019.01.25

福田美術館本「洛外図屏風」観覧記

◆見れば見るほど・・・深まる謎解き

 昨年の秋から、嵯峨嵐山文華館の企画展において、福田美術館本「洛外図屏風」左隻が展示されました。この屏風は『洛中洛外図 都の形象』で図版が紹介されたもので、このたび、初めて原本を観覧することができ、たいへん感銘をうけました。

 「洛外図屏風」は、17世紀中ごろにつくられた絵地図屏風で、現在類本が4本確認されています。なかでも、今回展示の福田美術館本(これまで『都の形象』本と紹介)と中井本(京都国立博物館寄託)は、祖本の成立から間もなく制作されたもので、前者を寛文、後者を延宝と制作年代を比定し、京都所司代の交代と関連づけて仮説を述べてみました。したがってこれら二つの比較・検討は、「洛外図屏風」を研究するうえで、とても大切な課題なのです。

 共通点と相違点はさまざまにありますが、ここでは描写内容に絞ってみると、福田美術館本には中井本には描かれていない内容があります。たとえば第1扇、鷹峯の東のところは、中井本では金雲に覆われているのに、福田美術館本には描かれています。また、一見すると福田美術館本は、中井本より貼札が少ない印象をうけますが、中井本にはない「柳谷かんのん」の図像と貼札があり、また粟生光明寺には瓦葺きの三重塔があるなど、次々と違いに気づきます。右隻では、基本的な年代指標とされる萬福寺・四条河原の描かれ方も大きな違いがあります。いったい「洛外図屏風」の祖本はどんなものだったのだろう?。今回、福田美術館本を観覧させていただくなかで、改めて考え直してみようと強く感じました。

 なにより衝撃だったのが、鷹ヶ峯の西、左大文字のところに船形が描かれている!と気づいたことです。鹿苑寺(金閣寺)の「七月十六日山火」(京都五山の送り火)のようすは、院主鳳林承章の日記『隔蓂記』に毎年のように記され、その形が「大文字」であったことは確かです。祖本のさい錯誤があり、それがそのまま写されたのでしょうか?。

 ◆京都研究と「洛外図屏風」

  この「洛外図屏風」を初めて紹介した美術史の武田恒夫は、どこの箇所をとっても当時の洛外をつぶさに観察でき、各研究分野にとって貴重な資料であると評価しました。建築史の内藤昌は、江戸時代以前の絵画や絵図は、写真や地図のような近代の技術以上に、人間の感覚を増幅する「迫真」が要求されたと述べました。建築史の川上貢も、地理的関係も含めた建物描写はそれぞれの特徴がよく反映されていると評価し、歴史資料として研究する前提を確かなものにしました。京都は、いうまでもなく「洛中洛外図屏風」や古絵図研究の分厚い研究蓄積があります。「洛外図屏風」の研究は、これらとあわせてより豊かに近世の京都像を提示し、当時の人々の時間・空間の認識や、さらに表現のありかたをも求める道のりになるのではないでしょうか。

 福田美術館本は、狩野博幸先生の解説で大きな図版をみることができます。今回初めて原本を目の当たりにし、あらためてそのありがたさを想い、なによりも美術館という環境のなかで、他の美しい絵画とともに鑑賞できたことに満足しました。このような機会を与えていただいた嵯峨嵐山文華館のみなさま、ありがとうございました。

 

 

-参考文献-

・武田恒夫の作品解説(中井本) 『洛中洛外図』 京都国立博物館 角川書店 1966年 

・狩野博幸の作品解説(福田美術館本) 『洛中洛外図 都の形象』 京都国立博物館 1997年

・内藤昌の論文(中井本)「都市図屏風」『日本屏風絵集成』11 講談社 1978年

・川上貢の論文(笹井家本)「旧笹井家蔵洛外図屏風について」『建築指図を読む』中央公論美術出版 1987年

・向日市文化資料館の図録(中井本・笹井家本) 『乙訓の西国街道と向日町』2015年 

 

左隻第1扇 鷹ヶ峯 なんでここに船なの?

 

左隻第2扇 金閣~北野~妙心寺~仁和寺 京名所のスペクタル!

 


左隻第3扇 嵯峨鳥居本 「一ノ鳥居」と「山火」 鳥居の競演!

 

左隻第4扇 嵐山 えっ、渡月橋がない!

 


左隻第6扇 粟生光明寺 あっ、三重の塔がある!

 

左隻第6扇 向日町と向日明神 乙訓のランドマーク


左隻第7扇 開田天神と大きな池 「八条殿茶屋」から見えるのは?

 

左隻第7扇 細川藤孝の勝龍寺城跡だ!

 


左隻第8扇 トリはやっぱり山崎! 古代以来の誇り高き町