三思一言◆ つれづれに長岡天満宮(21) 2019.05.25                

長岡保勝会~長岡公園と八条ヶ池~

◆長岡保勝会の創設と活動

 「境域を擴め、園林を修め、以て公園の体を搆造して神威を戴き、京阪及ひその他汎く公衆の快楽地と為し、以て大祭の盛儀を挙んとす」(『長岡公園増築寄附金芳名録』)として、長岡天満宮は明治35年(1902)に菅原道真御神忌千年祭を迎えました。しかし桂宮家の奉斎を離れ、地元主導の初めての大祭はさまざまな困難があったようです。

 翌年、天満宮の社掌に就任したのが中小路宗城(なかこうじむねき 1864-1936)です。宗城は大阪府島本町大沢で生まれ、明治22年に中小路宗元の三女久尾と結婚。貴船神社・大原野神社奉仕を経て、長岡天満宮菅原道真千年御神忌に関わり、社掌となりました。就任後まず行ったのが、中小路宗脩が所持していた記録の筆写です(「長岡天満宮古記録写」)。

 しかし直面する最も深刻な問題は、神社の維持と神域の保存のための財政立て直しです。その打開策として宗城は明治43年に「長岡保勝会」という講会を設立し、その収益で様々な取り組みを展開しました。京都ではすでに明治14年(1881)、岩倉具視が「京都保勝会」をつくって名所・古跡の復興を図る動きを始めており、これと連動した活動として、近隣では大正14年(1925)の「善峯寺興隆会」による楓・桜の植樹があげられます(善峯寺宝物館にて展示中)。中小路宗城が中心となって組織した「長岡保勝会」は、 このような近代的な「保勝」という概念のなかで生まれたものですが、篤志・信徒による独自の活動であること、そして地域発の保勝会として全国的にも早い事例である点で注目されます。

 ◆長岡公園と八条ヶ池 イメージアップ成功!

 長岡天満宮には、「長岡保勝会日誌」(明治43年2月~大正2年4月)・「長岡保勝会規約」(明治44年4月)、「祝詞屋拝殿建築日誌」(明治45年5月)・「長岡天満宮修築日誌」(大正2年2月)・「連歌所改築日誌」(大正3年2月)など当初からの資料が一括して保存され、また境内にはその功績を顕彰する3基の石碑も残っています。講会の発足は明治43年4月15日、満会は昭和10年4月で、ここでは明治44年4月の第8回規約の写真を掲載させていただきました。

 これによると、⑴祠宇及び諸建造物の修繕と⑵神苑拡張と参詣道路改築が、保勝会の目的の2本柱となっています。⑴については祝詞舎の新築と拝殿修理等により、冒頭の写真のような社殿に整えられました。本殿をはじめとする建物については次回「京都府建築建築技師亀岡末吉と長岡保勝会」の項でくわしく紹介します。

 ⑵の神苑拡張と参詣道路拡張は、長岡天満宮を近代的な名勝公園のなかに再生する事業の成否をかけたものでした。明治維新の上地により、江戸時代24町余りあった社地は5分の1となり、周辺の山林をはじめ大池(堤塘・中堤も含む)やそれに連なる溜め池も、開田区有や民有地となっていたからです。宗城は地元や新神足村会と交渉を重ね、無償で借り受けた溜め池4ヵ所を尊厳ある神苑とし、公衆や観光客向けには池畔に四阿(あずまや)・茶店をおき、京阪神の行楽地として整備していきます。また村道となっていた中堤は、キリシマツツジを保護した石垣の遊歩道とし、人力車や荷車の往来で傷んでいた堤塘は、併行して迂回する府道新設の実現で保全されました。さらに西陣町から南に入る「御成道」を拡幅し、ここに大鳥居を建立しました。

 これら一連の活動によって、社殿から大池まで連続して繋がっていた本来の境内空間のイメージを取り戻すことができたのです。長岡保勝会は「長岡公園」の名を盛んに使って新しさを強調し、また大池は宮家の由緒に因む「八条ヶ池」の名を定着させ、今日に至る風光明媚な天神さんとしてのイメージアップに成功しました。「長岡公園」→「八条ヶ池」→「キリシマツツジ」とフレーズをならべると、ことばの力はすごい!と改めて思いますね。こののち昭和3年(1928)の新京阪「長岡天神駅」の開設、昭和5年の京都市都市計画西国風致地区の指定、昭和6年の省線神足駅の開設と追い風をうけて、長岡保勝会の活動はさらに大きく展開していくことになるのです。

 このころのようすを「TENMANGU.NACAOKA」と印刷された絵葉書シリーズ(長岡天満宮蔵)からみましょう。②には「府社長岡天満宮入口」のキャプションがあり、府社の石柱が写っています。長岡天満宮が府社に列格されるのが大正12年ですので、絵葉書の年代はそれ以降となります。石鳥居と石柱の手前にある新設の石段には「大正11年3月」と「今尾家執事龍野満黄」の銘があり、このころ八条ヶ池西畔に移住してきた画家今尾景年と保勝会の関わりを示すものです。さらに➆「池畔風景」に錦水亭本館(大正15年上棟)が写っていますので、絵葉書の発行は昭和に入ってからと絞ることができます。①から⑨まで見どころが組み合わされた絵葉書全体から、天満宮×長岡公園×八条ヶ池が一体となって再生された大正~昭和初めの雰囲気が伝わってきます。長岡京市教育委員会から高精細の画像を提供いただきましたので、ぜひ拡大してご覧ください。

 このほかに「最新版 長岡天満宮境内絵葉書」の封筒入り絵葉書セット「The Vew of Nagaoka Park」(7枚組)があり(京都文化博物館管理)、これら全てにも「長岡天満宮参拝記念」の梅紋スタンプが押されています。注目されるのは「The Vew of Nagaoka Park」と同じ絵葉書セットが、錦水亭からも発行されていることです。これについては次々回に画像を紹介しますので、興味のある方は楽しみにしておいて下さい。

 

 -参考文献ー

・『長岡天満宮史』 長岡天満宮 2002年

・高木博志「明治末から大正期の長岡天満宮の整備」『長岡天満宮資料調査報告書 古文書編』 長岡京市教育委員会 2014年

・『中小路宗則翁千百年祭記念誌』 中小路家当主宗隆ほか世話人発行 2018年

明治44年『長岡保勝会規約』(表) 画像提供:長岡京市教育委員会

明治44年『長岡保勝会規約』(裏) 画像提供:長岡京市教育委員会


大正11年測図の京都市都市計画図より

新京阪長岡天神駅開設直前の地図です。堤下の府道、八条ヶ池、御成道、中堤北の池に突き出した四阿(あずまや)や周りの茶店、中堤南の錦水亭の池座敷や新築の本館のようすがわかり、造成中の乙訓郡青年会開設「長岡運動場」の輪郭も反映されています。

大正11年建立 長岡保勝会石碑

長岡の勝区を保存するの資に供せんが為有志と相謀り明治43年4月15日講会を組織し爾来継続して第6回を迎ふるに至れり、即其の純益金を投じて八条ヶ池の堰堤を改修し更に石垣を築き、境内に属する参詣道の延長90余間、並びに社殿の拾遺に敷石を舗く等聊かその面目を得たり、因て大正10年11月3日竣工報告の祭典を厳修し、併せて講会解散の式を行う

 

大正14年建立 長岡保勝会石碑

長岡保勝会は講法を継続して更に明治44年4月第7回を、同年7月第8回を、同45年4月第9回を、大正2年10月第10回を組織す。其純益金を以て祝詞屋及ひ神門・拝殿・社務所・連歌所等を改築して規模を拡大し、且つ残余の金若干を寄付し、神社護持の基本とす。全く既定の目的を達せしに因り、同14年事業完結の報告し記を挙行せり

昭和10年建立 長岡保勝会石碑

本会は大正10年6月自第1回至第4回講会を組織し、純益金2万円を得、本殿・拝殿・祝詞屋の移転、神饌所・神輿庫の新築、御成道に大鳥居建設、石段2ヶ所の改築等をなし、昭和10年4月満開報告式を挙行せり


TENMANGU.NACAOKA絵葉書(大正末期~昭和初め) 長岡天満宮蔵 画像提供:長岡京市教育委員会

①府社長岡天満宮本殿

➃(長岡公園)霧島つゝじトンネル

②府社長岡天満宮入口

➄長岡天満宮境内八条ヶ池畔流れ松

③長岡天満宮境内公園

⑥長岡天満宮境内八条ヶ池風景


➆長岡天満宮境内八条ヶ池畔風景

⑧(長岡公園)八条ヶ池畔霧島つゝじ

⑨長岡天満宮境内楓トンネル