三思一言◆ つれづれに長岡天満宮(30) 最終回 2020.01.25                

八条ヶ池の大改修と「古今伝授の間ゆかりの地」

◆西山の風光と町の潤い

 八条ヶ池は、江戸時代に領主八条宮家が築造した人工の池です。以来長岡天満宮や開田御茶屋と一体となった優美な風光を、多くの人々が愛で、親しんできました。

 そして時代は明治となり、宮家の奉斎を離れての険しい道のりを歩むことになりましたが、大正~昭和に近代的な保勝活動が図られ、京阪の観光客が押し寄せる「長岡公園」として甦りました。雅な由緒を誇りに、「大池」が「八条ヶ池」と名付けられ、再生されていった歴史を忘れることはできません。

 しかし、戦後の社会や自然環境の大きな変化のなかで、長岡天満宮と八条ヶ池はさらに大きな選択を迫られ、時代に即した保勝への模索が図られました。特筆されるのが、平成3年度から始められた「市町村シンボル事業」による中堤の拡幅と水上橋の架橋です。中堤のキリシマツツジは、嘉永5年(1852)の御神忌950年頃に植栽されたもので、今では樹齢170年余りの巨木となっています。池水の浸食や人の往来から根を守るための改良が続けられてきましたが、この事業では左右に歩道を増築して、今後の成長に備えました。水上橋四阿(あずまや)の説明板には、友好都市・浙江省寧波市のゆかりで同省杭州市の三潭印月を望む水上橋をモデルとしたこと、「市民の憩いと観光の名所」となるようにとの思いが記されています。

 これに続く「団体営ため池等整備事業(平成5~10年度)」では、池の浚渫を行い、水質維持のためのポンプや噴水、テラスやデッキの設置を加えて、八条ヶ池を回遊する「ふれあい回遊のみち」が完成しました。その周りには新たにキリシマツツジが植栽され、江戸のキリシマと平成のキリシマの競演が咲き誇るさまは見事です。そして平成25年(2013)、このような取り組みと、西山の眺望を取り込んだ開放的な眺望を守っている景観政索が高く評価され、都市景観大賞(「都市景観の日」実行委員会主催、国土交通省後援)を受賞したのです。

◆遙かなるれきし旅

 風光に優れた都市(生活)環境という点と共に高く評価されたのが、幾重にも折り重なる歴史の厚みです。八条宮第2代の智忠親王は、陂池(現在の八条ヶ池)を造成し、初代智仁親王が細川幽斎から古今伝授を受けた座敷を、今出川屋敷から開田天満宮の境内に移します。座敷は単独の御茶屋建物となり、当初は天神山の南端、幽斎(長岡藤孝)が三条西実枝から古今伝授を受けた勝龍寺城跡を見晴らす、小高い丘の上にありました。

 その後開田天満宮は、元禄年間に霊元上皇の篤い援助によって再興が図られ、その名も長岡天満宮とよばれるようになりました。「長岡」はもちろん「長岡藤孝」と名乗った幽斎との縁によるものです。御茶屋は八条ヶ池の西辺に移され、その奥に連歌所や宮家の詰所が営まれ、さらに安永~天明年間の大修造を経て、どことなく雅な雰囲気が漂う洛西の名勝となったのです。宮家(八条宮ー常磐井宮ー京極宮ー桂宮)は、代々「古今相伝」の格別な御家として、幽斎を篤く祀りました。250回忌にあたる安政6年(1859)8月には、下桂御茶屋園林堂(宮家の位牌所)に掛けられた幽斎画像に参拝するとともに、幽斎に「大明神号」を授け、長岡天満宮連歌所西の弁天池に「長岡大明神」の祠を建て、さらなる霊徳を祈りました。

 また長岡天満宮が宮家の別荘でありながら、地元開田村の氏神であるという古くからの伝統を受け継ぎ、天神信仰の広がりのなかで庶民を受け容れてきたことも重要なことです。このような、さまざまな要素が融合した独自の深い歴史こそが、明治維新を乗り越えて近代的な神社&公園へと再生していく原動力となりました。

 そして戦後、「長岡」は古代の都に因んで新しい町の名となり、みどりと歴史を生かした豊かな都市づくりが進められています。京都縦貫道開通を機に、大河ドラマ誘致の機運が盛り上がる中、平成24年(2012)11月、長岡京市は長岡天満宮の境内に「古今伝授の間ゆかりの地」の石碑を建立しました。

  八条ヶ池からみえる町並みや人々のくらしは、これからどのようになっていくのでしょうか。地球温暖化による自然災害の脅威も深刻で、2018年の台風21号では長岡天満宮の社殿や石鳥居、八条ヶ池の並木、錦水亭の池座敷などが大きな被害をうけました。今年は明智光秀を主人公にした大河ドラマの放映が始まり、勝竜寺城公園はたくさんの戦国ファンで賑わっています。来る5月26日には、東京オリンピックの聖火を八条ヶ池から望むことができるでしょう。このかけがえのない空間で、末永く歴史が語り継がれ、叡智を集めて大切に守られていくことを願いつつ、2年余りにわたって連載した「つれづれに長岡天満宮」のれきし旅を、ひとまず終えることにしましょう。

 

ー参考文献ー

・『長岡京市の景観』 長岡京市教育委員会 2001年

・「平成25年度 都市景観大賞」 「都市景観の日」実行委員会

 

→つれづれに長岡天満宮(全30回)もくじ    →YouTube つれづれに長岡天満宮 総集編


長岡京市建立「古今伝授の間ゆかりの地」

ー説明板から抄文―

 明治維新を迎え、開田村が桂宮家の領地ではなくなると、明治4年(1871)に開田御茶屋は解体され、ゆかりのある細川家に引き取られます。そして大正元年(1912)、茅葺屋根に変わり、熊本の水前寺成趣園に「古今伝授の間」として再建されました。平成21年(2009)年から翌年にかけて行われた古今伝授の間の解体修理では、柱・欄間・花頭窓といった部材や間取りなどが、長岡天満宮時代を受け継いでいることも確認されています。

 幽斎と智仁親王を結ぶ開田御茶屋が、今もなお古今伝授の間として伝えられていることを受け、「住みつづけたいみどりと歴史のまち」を実現するため、長岡京市制施行四十周年記念の年に、ゆかりの地であるここ長岡天満宮にこの石碑を建立いたします。

          平成二十四年十一月五日  長岡京市

 

【石碑のデザイン】

 積み重ねられた歴史の深さを屏風に見立て、3枚の石板と石柱で表現している。中央の石板には、「古今伝授の間」の花頭窓と細川護熙氏による「温故知新」の文字が刻まれ、左右の石板には、このことが思いを寄せる多くの人々に伝わるようにと、漣(さざなみ)があしらわれている。



左は在りし日の霊元上皇奉納の石鳥居。2018年の台風21号で壊れ、長岡天満宮がモニュメントとして保存した(2019年12月)。右は、昭和期に境内北の府道沿いに移設された、現存の霊元上皇奉納石鳥居。