三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⑶                     2017年10月5日

開田城と開田天満宮

◆開田天満宮はどこか?

 開田城は、天文7年(1538)の「太政威徳天縁起絵巻」(天神縁起)奉納を主導した中小路宗綱の居館です。開田旧集落の西、小字「城ノ内」にあり、マンション建設が行われるまで、堀や土塁で囲まれる城館の様子が良好に残っていました。発掘調査から一辺約70メートル、堀は6~8メートルの規模であったことがわかっています。戦国時代の開田天満宮は、開田城の西南150メートルのところ、集落からちょっと離れたところにありました。丘陵から流れ出る水や湧水が集まるところで、農業の神・天神を祀る絶好の場所です。

 江戸時代の領主桂宮家の支配に関わる絵図からもはっきりしていますし、「西小路の森」とか「お森さん」とよばれて、ここに古社があったという伝承もあります。長岡天満宮に伝わる旧記には、中小路氏が明応7年(1498)に、応仁の乱で退転した天満宮を造立したという棟札が写されていますので、このころ天満宮の社殿があったことは確実です。ギメ本「太政威徳天縁起絵巻」巻6の奥書を引用しておきましょう。

 右六巻の縁起、古本これありといへども破損の条、新たに書写し記す。事書においては愚翰すること甚

 り巨多なり。しかりといへども施主の懇志に応じ、諸人の嘲笑を恥ざること寔に恐怖恐怖、寺院再興、 鎮守

 瑞籬安全、庄内繁盛、別して明神守護、所願成弁 天文七年戊戌十一月二十五日 

   中少路山城守宗綱これを成す 

 長岡天満宮旧記には、中小路氏が文禄4年(1595)に再び開田天満宮を造立したこと、それは翌年の大地震で破壊されたこと、そして慶長3年(1598)に再び造立したことがわかる棟札も写されています。

 

◆薬水場寺はどこか?

 書には、この天神絵巻が「開田庄薬水場寺」の「例宝」であること、そして大願主「蔵福寺」の当住「長首座」の多年の望みであったことが記されています。

 「薬水場寺」は開田のどこかにあったことは明らかですが、そのような寺院の存在を示す記録や地名は見当たりません。しかしその名称から、開田庄の重要な用水のところにあったことが推定できますので、開田天満宮と隣接してあった可能性が指摘されています。

 ここでは、もう一つの候補として三尊寺をあげておきましょう。三尊寺は鎌倉時代に仁和寺の別院である開田院があったところです。江戸時代の記録によると薬師如来が祀られ、長岡天満宮の別当を務めていたとあり(長岡天満宮文書)、中小路氏と関係の深い寺でした。現在も境内の周りを水路(堀跡)がめぐっていますし、仁和寺領開田庄の荘官にあった中小路氏の立場を考えれば、ここも重要な場所であったはずです。

 「蔵福寺」は全く見当がつきませんが、「長首座」とありますので禅宗のお寺であったと考えられています。まだまだ分からないことが多く、奥書・裏書の解釈や、絵巻制作に対する中小路宗綱の関わり方についてもさまざまな意見があります。しかし開田城とこの天神絵巻6巻の存在が、乙訓・西岡の戦国時代をより確かに、そしてより豊かに伝えていくことはまちがいありません。

 

 -主要参考文献-

 ・鈴木幸人・仁木宏「中世の開田天満宮と中小路氏」『長岡天満宮資料調査報告書 美術・中世編』長岡京市教育委員会 2012

 ・綿田稔ほか「国立ギメ東洋美術館蔵 太政威徳天縁起絵巻」『美術研究』第410号~412号 2013~2014

 ・井上喜雄「桂宮家領開田村絵図をめぐって」『乙訓文化』78号 2012年

 ・「桂宮日記」明治4年12月22日条

開田城跡(阪急バス停長岡天神南側)

 マンションの一角に保存されている、西側の土塁です。土塁に沿う南北の道路とバス停のある東西道路が堀跡で、城館の西北コーナーにあたります。敷地内には南東の土塁の一部も残されていて、規模が体感できるよう工夫されています。

 マンションのエントランスには、発掘成果などをもとに復元した模型が展示され、だれでもみることができます。

 

 

 

開田天満宮故地附近

 開田天満宮のあったところは、現在宅地になっていますが、道路の形状からその場所がわかります。写真中央にみえるのが長岡天満宮大鳥居。わずかに開田天満宮故地の雰囲気が感じられるところです

仁和山三尊寺

 三尊寺の周りには、集落の東北を画する堀跡(水路)が残っています(水色のフェンス)。開田城とともに開田地区の歴史を伝える由緒深い寺院です。現在は西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。