三思一言◆つれづれに長岡天満宮⑷                  

2018年1月20日

八条宮智仁親王と細川幽斎

八条宮家と開田村

 八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう 1579-1629)は、正親町天皇の皇子誠仁親王の第六皇子です(後陽成天皇の実弟)。天正14年(1586)に豊臣秀吉の猶子となりましたが、秀吉に実子が生まれたため親王遷宣下をうけて宮家が創設され、所領が与えられました。

 当初の所領は、宇治郡石田・小栗栖・木幡にありましたが、慶長3年(1598)に丹波国船井郡・多紀郡に移されます。そして慶長6年、徳川家康が散在していた禁裏・公家領を山城国に移したさい八条宮家に与えたのが、山城国の川勝寺村917石、下桂村1112石、徳大寺村311石、御陵村163石、開田村447石ほか合わせて3006石余りと、「山林竹木、河の物成・渡船(桂川の支配)」でした。この時、開田村が八条宮家の領地にならなければ、今の長岡天満宮はないといってよいでしょう。

 元和5年(1619)と寛永14年(1637)年に、京都所司代から開田村に対して天神山の立ち入りを禁止する制札が出されていますので、現在の境内の周辺が、「八条宮御領内天神山」として宮家の支配をうけるようになったことがわかります(桂宮文書)。

◆開田天満宮と勝龍寺城跡

 古今伝授は「古今和歌集」をめぐる諸説の相承のことで、歌学・歌道追求のかたち(講釈と儀式)です。上の写真は、2010年から3年をかけて東京・京都・九州の国立博物館で開催された特別展の図録表紙で、永青文庫の至宝とともに、智忠親王と幽斎の深い関係を示す八条宮家伝来「古今伝授関係資料」一式(現在宮内庁書陵部が所蔵)も展覧されました。

 幽斎から智仁親王への古今伝授が始められたのは、慶長5年(1600)3月19日のことです。このとき幽斎は67歳、智仁親王は22歳でした。しかし家康出兵の動きに対応するため幽斎は丹後田辺城に籠城し、古今伝授は中断されます。7月27日、使いを遣わして開城を進める智仁親王に対して幽斎は伝授の証明状を与え、「いにしへも今もかはらぬ 世の中に こころのたねを のこすことのは」の歌と大切な古今伝授の箱を託しました。その後、幽斎の死によって当代随一の歌学者を失うのを案じた後陽成天皇をはじめとする公家らの説得が何度も行われ、9月18日、ついに幽斎はこれに応じ田辺城をでて、丹波亀山城に入ります。この関ヶ原合戦のさなかの有名な事件の渦中で、智仁親王は中心的な役割を果たしたのです。

 京都に戻ってからも幽斎はたびたび八条宮屋敷を訪れ、学芸を通じた智仁親王や皇室・公家・僧侶・連歌師等の幅広い交流が繰り広げられます。智仁親王が幽斎からうけた古今伝授は、代々の天皇にうけつがれて、のちに「御所伝授」とよばれるようになりました。開田天満宮の風雅な趣向は、この八条宮家の宮廷社会における「特別な立場」をぬいては語ることができません。

 開田天満宮が宮家にとって「特別な場所」になったのも、また幽斎との縁です。今は都市化されているのですぐには気が付きませんが、下の古い地図をみれば一目瞭然ですね。なんと開田天満宮の眼下には、勝龍寺城跡がみえたのです。このシリーズもいよいよ江戸時代に入りました。幽斎の存在が宮家にとっていかに大きいものであったのか、これから明治維新までたっぷりとご紹介します。

 

-主要参考文献-

・西和夫「古今伝授の間と八条宮開田御茶屋」『建築史学』第1号 1983年

・京都伝統建築技術協会『古今伝授の間修理工事報告書』 公益財団法人永青文庫 2011年

・宮内庁書陵部『智仁親王詠草類』1~3 解題 1998~2001年

・杉本まゆこ「御所伝授考-書陵部蔵古今伝授関係資料をめぐって-」 『書陵部研究紀要』第58号 2007年

・富坂賢「古今伝授と細川幽斎-歌道にみる戦国のネットワーク-」東京国立博物館・京都国立博物館・九州国立博物館ほか『細川家の至宝 珠玉の永青文庫コレクション』 2010-2012年

・『細川幽斎と舞鶴』 舞鶴市 2013年

 

大正11年(1922)都市計画図より

左上が長岡天満宮、右下「城ノ内」のところが勝龍寺城跡。現在は勝竜寺城公園として整備され、全国からお城ファンが訪れる人気スポットです。長岡天満宮にお越しのさいは、ぜひここにもお立ち寄りください。長岡天満宮から徒歩で約30分、JR長岡京駅からは約10分。

 

勝竜寺城公園「天主」跡

  元亀2年(1671)、細川藤孝が信長の命をうけて築いた城です。土塁や堀、周辺の堀や外郭土塁がまとまって残り、信長期の城として、学術的に高い評価をうけています。写真の奥にみえるのは、ひときわ高い「殿主」(てんしゅ)跡の土塁。藤孝はここで三条西実枝から古今伝授をうけました。

 

 

田辺城跡心種園(舞鶴市)

 山崎の合戦ののち隠居した藤孝は「幽斎」と名乗り、隠居所として田辺城の築城を始めます。田辺には幽斎と親交のあった文化人が数多く訪れるようになります。城跡に整備された「心種園」では、関ヶ原の合戦と後陽成天皇の勅命による救出劇が今も語り伝えてられています。