三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⑼ 2018年08月06日                    

開田御茶屋と大池・小池

◆八条宮家の開田村支配

 下桂村・川勝村・徳大寺村・御陵村・開田村合わせて3000石余りが八条宮家の領地となったのは、桂宮文書(宮内庁書陵部蔵)に伝わる元和3年(1617)の徳川秀忠判物を根拠に、元和年間のことという説が一般的です。しかし江戸幕府の領知研究の第一人者である藤井譲治先生は、元和3年の秀忠安堵は慶長6年の家康安堵を継承したものであり、八条宮家領も、慶長6年の禁裏・公家領の再編を機に、これら5村が領地になったのだとされています。

 どちらにしても、元和のころに智仁親王が積極的に下桂の御茶屋の造営に着手しつつ、開田村への関与を始めたのはまちがいありません。元和5年に京都所司代板倉勝重が開田に出した制札から、八条宮家領栗林への立ち入りが制限されたことがわかるからです。智仁親王が寛永6年(1629)に薨去した後、若君の智忠親王が成人を迎えるころ、このような動きはさらに活発になります。開田村には寛永14年、京都所司代板倉重宗から再び制札が出され、天神山・栗林・松林への立ち入りが厳しく制限されました。

 

◆開田天満宮の移転と大池の造成

 中世以来、村の重要な水源のところに祀られていた天満宮が、西の山手に移されたのはいつのことでしょうか。この移転が智仁親王の代なのか智忠親王の代なのか、はっきりとした史料はありませんが、智忠親王の代である可能性が大きいでしょう。寛永12(1635)年に宮家から奉納された三十六歌仙額2点が、長岡天満宮に伝わっているからです。歌仙額の裏にはいづれにも「寛永拾ニ年四月吉日」と「開田村天神御拝殿之歌仙」の墨書がありますので、この時点で天満宮の御本社とともに拝殿があったことがわかります。

 その直後、寛永15年には「陂池」(堤のあるため池)の造成が行われました。村の在所(集落)に延びる段丘と、南の横山との間の大きな谷に長い堤防を築き、西山から流れ出る谷水と湧き水を貯めた人工の大池です。大池は天満宮の前庭として社観を高めるとともに、開田村の灌漑用水としての役割がありました。下の「洛外図屏風」からつくったイラストをごらんください。2箇所に樋が描かれていますね。さらに大池のまわりには、中池(寛永16年)、山の池・小池(寛永19年)、北の小池(寛永20年)、力池(慶安元年)、九郎右衛門池(慶安2年)、月見ヶ池(慶安3年)と、次々とため池がつくられていきました。

 

◆はるかなる天神山の「開田御茶屋」

 京都から訪れる人々は、田園のはるか向こう、水面に浮かぶ小島のような天神山の風景を目にしたことでしょう。田園・水辺・眺望こそが、寛永文化における御茶屋造営の三大要素です。西は天王山から愛宕山まで、悠々とした西山を借景とし、大池越しからの東は、比叡山から男山までが連なるという、雄大な趣向です。天神山には学問の神様・天満宮を祀り、しかもそのそばに御茶屋として今出川屋敷から移された建物は、智仁親王が細川幽斎から古今伝授を受けた学問所なのです。智忠親王が、大切な建物を火災の難から守るため、移築先として選んだのが下桂の御茶屋ではなく開田であったのは、ここが細川幽斎ゆかりの勝龍寺城跡を望む特別な場所であったことにほかなりません。

 移築の直接の契機となったのは、寛永19年(1642)の智忠親王と前田利常の娘富姫(ふうひめ)の婚儀のために行われた、今出川屋敷改造のさいと考えられています。幕末に記された『桂別業記』によると、加賀から取り寄せた松が下桂の御茶屋の大川(桂川)筋と長岡大池の堤にあり、この婚儀が八条宮家の屋敷や御茶屋の造営にはずみをつけたようです。智忠親王は、有馬からの帰りに開田の池に立ち寄ったり(『有馬湯治日記』)、下桂の御茶屋から開田まで2里の道を馬を走らせたり(『長尚愚記』)と、開田へ出向くこともありました。

 今回の内容も、土地勘のない人にはわかりにくい内容ですね。先学に学びながら下手なイラストや略図をいろいろつくってみましたが、いかがでしょうか。長岡天満宮の歴史的な本質を理解するためにとても大事なところですが、なかなかうまく説明できません。これからもぼちぼちと書いていきますので、興味のある方は引き続きご訪問下さい。

 

ー参考文献-

・西和夫「古今伝授の間と八条宮開田御茶屋」『建築史学』第1号 1983年

・『長岡京市史』本文編二 1997年

・『長岡天満宮史』2002年

・井上喜雄「桂宮家領開田村絵図を巡って」『乙訓文化』78号 2012年

 

 


17世紀中頃の開田村略図

京都府立歴彩館に所蔵されている正保2年(1645)の「桂宮家領開田村絵図」から、山林の状況を抜き出してイラストにしたものです。この村絵図は乙訓地域で最も古く、智忠親王代の開田村を描いた貴重なものですので、稿をあらためてご紹介しましょう。

「開田天神」と「八条殿茶屋」(17世紀中ごろ)

「洛外図屏風」(左隻第7扇)をもとにつくったイラストです。大池の西に「開田天神」の建物が3棟あります。そして大池を見下ろす小高い山上に「八条殿茶屋」の建物も描かれています。他の地図と見比べていただければ、「洛外図屏風」の描写が、天神山・大池・開田天神・御茶屋を一体とする宮家の造営の意図を、とてもリアルに表現していることがわかります。

古・開田天満宮と「上ノ茶屋」(「八条殿茶屋」)比定地 

べ―スマップ:大正11年 


開田御茶屋略図

長岡天満宮に伝わる指図(明治初年写し)から作成した略図です。規模こそ少し異なりますが、床の間のある鎖の間と御座の間2室に、座敷縁、台所・湯殿・厠がつく平面構成は、智仁親王が下桂の茶屋につくった書院(瓜畠のかろき茶屋)とよく似ています。