つれづれに長岡天満宮⑼附録

-桂宮家領開田村絵図を読む-

 ◆歴彩館所蔵の桂宮家領関係絵図

 京都府立歴彩館に「桂宮家領関係絵図」と名付けられた一群の絵図があります(館古481)。桂宮家領の村々(川勝寺村・宿村・下桂村・御陵村、開田村)の村絵図21点からなります。明治初年までのさまざまな絵図が集められたもので、このなかで最も古いのが、正保2年(1645)の開田村絵図(101×59cm)です。

 この絵図は墨書きの指図で、開田村全体の道・田畠・芝山・池・松林・栗林等の位置をくわしく描き、同筆で「正保弐年霜月十九日」とあります。当初は虫損で取り扱いがたいへんだったと思いますが、今は丁寧に修理されて閲覧もでき、鮮明な写真も提供いただけるので、たいへんありがたいことです。

 しかもこの絵図については、乙訓の文化遺産を守る会の方々が解読図を公表されています。地名や固有名詞がびっしりと記されているので、解読図をつくるのにとてもご苦労されたことを、具体的に紹介しておられます。しかし地元にとってはそれだけ資料的価値が高く、智忠親王代の開田村のようすがわかるものとして他に例がなく、とても魅力的な絵図なのです。私もこの解読図を利用させていただき、開田村の山と林のようすを示した略図をつくることができました(つれづれに長岡天満宮⑼開田御茶屋と大池・小池)

 

◆開田村大池用水粗絵図と天満宮古社跡

 歴彩館の「桂宮家領関係絵図」のなかに、もう1点興味深い絵図があります。史料名「開田村粗絵図」と目録にあるもので(年代不詳)、大池(八条ヶ池)から西に三尊寺まで流れる用水をくわしく描いたものです。これも乙訓の文化遺産を守る会で公表されていますが、私もこの機会に、下に示したような解読図をつくってみました。開田城北の堀跡を流れる大規模な用水の様子がよくわかり、示唆されることはたくさんありますが、ここでは開田城の西南に付記されている、「天満宮往古社跡」と「西小路森・白太夫社」の部分に注目してみましょう。

 白太夫社は天満宮とセットであるのが一般的です。しかし、開田村では天満宮が八条宮家によって西の山手に移された後、白太夫社だけが古社跡の隣に祀られていたことがわかります。この遺跡についてはもう少しくわしい指図(石原義胤家文書)が伝わっており、古社の跡には土檀の名残り、白太夫社には井戸の存在が示されています。また「桂宮日記」(明治4年12月22日条)には、上げ地にさいして境外の末社の取り調べが行われた時の指図があり、白太夫社と天満宮古社跡が「西小路の森」とよばれ、明治初めまでその由緒を伝えていたことが確認できます。

 ちなみに白太夫社は、その後長岡天満宮境内に遷され、現在は錦景苑に祀られていますので、御参りに行かれた時はぜひお寄りください。

 

-参考文献-

井上喜雄「桂宮家領村開田村絵図」『乙訓文化』78号 2012年

 


【参考】開田城跡と古天満宮跡

『長岡京市史』民俗編の付図に示してみました。こうしてみると、水路との関係がよくわかります

白太夫社と和泉殿社

錦景苑の池の奥に並んで祀られています。和泉殿社も境外末社でした(跡地には現在もお社と鳥居があります)。いづれも開田村の用水にとって大事なお社で、今も大切にされています。