三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⑽ 2018年9月16日                    

霊元上皇の元禄造営

◆霊元上皇の皇子と宮家

 八条宮智忠親王が寛文2年(1662)に薨去した後、後水尾上皇の第十皇子穏仁親王、後西天皇第一皇子長仁親王、後西天皇第十皇子尚仁親王と相続されますが、いづれも若くして亡くなります。そして元禄2年、誕生間もない霊元上皇第十皇子作宮が相続し、宮号が常磐井宮と改められました。

 元禄3年に上皇から下賜された勅額は、唐草文様の縁金具と梅紋の鋲で縁取られた額面に「天満宮」と陰刻され、当初は金泥が塗られていました。縁は一面に青・緑・金で彩色された雲文様で、最外面に金箔が押されるという豪華なつくりです。

 平成19年から始まった長岡天満宮資料調査では、霊元上皇ゆかりの驚くべき資料が発見されました。それが旧拝殿に架けられていた八枚セットの和歌額です。田島達也先生の詳細な調査によってこの和歌額は、霊元上皇の意思のもと、作宮の母菅中納言局(菅原経子)によって寄進されたものとわかりました。このような形式の和歌奉納額は、他に例がなく、上皇発案のオリジナル和歌額としてたいへん貴重なものです。

 ◆開田御茶屋存亡の問答

 ところが作宮は一度も宮家の屋敷に入ることなく、元禄5年にわずか4歳で亡くなり、元禄9年には霊元上皇第八皇子文仁親王が相続し、宮号は京極宮と改められます。しかしこの間、元禄15年の菅原道真800年御神忌の万灯会まで、天満宮の再興は家司らによって着々と進められていきました。

 御茶屋の修造もその一つです。「桂宮日記」元禄9年8月25日条には、幕府の禁裏付け役人久留島通貞から「開田は遠く、宮様の御成りも難しく、修復もされないまま傷むばかりなので、取り払うべき」という意見に対し、家司の生島永盛が「この御茶屋は智仁親王の学問所であり、京都では火災の恐れがあるとして智忠親王がここに移したものなので、そのままにしたい」と応じた問答が記されています。「桂宮日記」には元禄5年から元禄13年まで、御茶屋に関する記事が度々ありますので、存亡の危機を乗り越えて、大池畔に開田御茶屋が営まれるようになった動きを知ることができます。

 

-参考文献-

・長岡天満宮 『長岡天満宮史』 2003年 

・㈶京都伝統建築技術協会・永青文庫 『古今伝授の間修理工事報告書』 2012年

・長岡京市教育委員会『長岡天満宮資料調査報告書 美術・中世編』 2013年

霊元上皇奉納和歌額

 梅と松の絵が描かれた八面の額に、三十六首の和歌の色紙を貼り付けたもの。上皇や宮中の公家らの筆により、古典から選んだ梅の和歌18首、松の和歌18首、合わせて36首を奉納するという趣向。紙の色紙はすでに剥がれているが、奉納の経過とともに多くの記録があり、その全容がわかる。絵は宮家とゆかりの深い狩野永敬で、鶴沢探泉修補。元禄4年奉納、享和元年修理、嘉永5年架け替えを経て、明治まで拝殿にあった。

霊元上皇奉納の石鳥居(2018年8月撮影)

 元禄5年奉納2基のうちの一つ。9月の台風21号により、上部が損壊しました。