三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⑾ 2018年9月23日                    

中小路氏と祝詞師石原氏

◆元禄再興のハードとソフト

 元禄3年(1690)、幼い霊元上皇の皇子・常磐井宮御代始めの吉事として、本社・拝殿・神供所・連歌所から鳥居にいたるまで、すべて一新するという大規模な造営がなされました。このときの大工は、宮家の御用棟梁北村市兵衛重之で、このあと宝暦6年からは、京極宮文仁親王の付屋敷(石薬師御殿)の造営を行うなど、代々宮家の御用を務めていく家柄です。

 社殿ばかりではありません。霊元上皇は、それまで天満宮や御茶屋を管理していた中小路宗信に、天満宮の縁起や旧記を尋ね、年中行事を整備します。この祭事を執り行うため、宮家から「社守」として送り込まれたのが石原定近で、京都吉祥院南方の石原の地を本拠とした土豪の子孫であり、近世には吉祥院天満宮に勤仕していた社家の弟という経歴の持ち主です。

 元禄9年には、開田村の年貢を割いて社用米50石が定められ、年中行事や修理料のほか石原氏と中小路氏2家、そして宮仲間に手当が支給されるようになります。年中行事催行や維持管理などの分担がくわしく定められ、3者が協力して天満宮の奉斎を執り行うという、天満宮ならではの独自のシステムが確立されました(「桂宮日記」元禄9年10月~12月条)。

 

 ◆菅原道真800年御神忌の万灯祭

 社殿・連歌所・御茶屋の造営、鳥居や神号額・和歌額の奉納、社守・宮仲間による奉斎システムの強化など一連の整備を終えた元禄15年(1702)2月16日~25日、天満宮では初めての万灯祭が挙行されました。再建された末社(春日社・八幡社)の前には、今でもその時に宮仲間が奉納した石灯籠(元禄15年2月25日銘)があり、元禄再興のうねりを知ることができます。このころから、社号は開田天満宮ではなく「長岡天満宮」の名前が使われるようになります。開田天満宮から長岡天満宮へ。元禄の万灯祭は、名実ともに新しい時代の到来を照らし出したのです。

 

-参考文献-

・小沢朝江「桂宮家における本邸・屋敷の造営とその担当大工について」日本建築学会計画系文集467 1995年

・玉城玲子「長岡天満宮と桂宮家」『長岡京市史』本文編二 1996年

・藤井譲治「近世の長岡天満宮」『長岡天満宮史』2002年

歴彩館・京の記憶アーカイブ「式外古社考証 郡中部 長岡天満宮」より

元禄15年5月「長岡天満宮縁起」(明治8年写し)

 中世以来の譜代中小路家は、宮家からその由緒を認められ、新任の祝詞師や宮仲間と共に天満宮の奉斎を担いました。これは、当時すでに散逸していた縁起や旧記の代わりに、中小路氏と菅原道真の関わりをまとめたものです。

 

歴彩館・京の記憶アーカイブ「式外古社考証 郡中部 長岡天満宮」より

元禄3年5月「例祭年中行事」(明治8年写し)

 月ごとに細かく定められた年中行事は、懸板2枚に記されて、明治初めまで連歌所に架けられていました。