三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⑿ 2018年10月05日                    

京極宮3代と安永・天明の大修造

◆京極宮3代

 霊元上皇の第10皇子作宮(常磐井宮)は、元禄5年(1692)にわずか4歳で薨去します。そして元禄9年に、霊元上皇第八皇子文仁親王が相続し、宮号が「京極宮」と改められます。

この後文仁親王ー家仁親王ー公仁親王とつづく京極宮直系3代は、和歌や学芸に造詣が深く、宮家文化の大きな興隆をもたらしました。

  特に家仁親王は、初代智仁親王の業績に深く傾倒し、桂別業の修理を行い、たびたび訪れては文化人らとの交流を図ります。数多くの和歌やゆかりの品は、江戸時代中期に公家文化のトップランナーとして活躍した親王の活動を伝えています。享保5年(1720)4月16日、家仁親王は初めての天満宮社参に赴きます。京都石薬師の屋敷をたち、久世村・向日町を経て、北の道より開田御茶屋に入りました。ここで休憩をとり、身支度を整え、行列を仕立てて昇殿ののち、御茶屋あたりの御山遊覧を楽しんだのです(「桂宮日記」享保5年4月16日~18日条)。

 その家仁親王の第1皇子公仁親王も、親王宣下をうけた延享2年(1745)と、宮家を相続した宝暦4年(1754)の二度、長岡天満宮を参詣しています(「桂宮日記」)。明和4年(1767)に公仁親王が詠んだ長岡天満宮法楽和歌5首からは、「長岡の神」へ「家の栄」を祈る親王の思いを知ることができます。

 

◆安永・天明の大修造

 公仁親王の長岡天満宮参詣のころの様子を描いた「京極宮御山荘長岡天満宮図」(宝暦5年10月24日、北野天満宮所蔵)という絵図があります。大池に沿って主殿棟・台所棟・客屋棟が連なる御茶屋の全体が描かれている点、とても貴重な資料です。また当時の考証家が、長岡天満宮に対してどのような認識をもっていたのかもわかります。

 公仁親王は明和7年(1770)に薨去しますが、その后寿子は亡き親王の「御心願」をうけて、安永5年(1776)から長岡天満宮の大修造に着手します。完成なったのは天明2年(1782)で、9月21日・22日には、祝いの万灯供が催されました。天明7年刊の『拾遺都名所図会』は、このとき修造なった長岡天満宮の全体を余すことなく伝えています。大池にはあらたに「御舟場」や中島が設けられ、霊元上皇の元禄再興から始まる京極宮3代の造営によって、長岡天満宮は雅な趣向と庶民の天神信仰が合わさった、他に例のない名勝地となったのです。

 

-参考文献-

百瀬ちどり「近世の長岡天満宮と八条宮家」『長岡天満宮資料調査報告書』美術・中世編 長岡京市教育委員会 2012年

 

明和4年(1767)5月15日 京極宮公仁親王 長岡社法楽和歌 (宮内庁書陵部所蔵) 

 

開田御茶屋略図

 長岡天満宮に伝わる古記録から、盛時の開田御茶屋の略図をつくってみました。家仁親王・公仁親王親子が、長岡天満宮に参詣したころの御茶屋のようすをうかがうことができます。北に御成門があり、南が親王が入る床の間・座敷、東が台所や家司らが滞在する客屋の空間として仕切られていたことがわかります。

『拾遺都名所図会』天明7年(1787)刊 百瀬ちどり所蔵本:ご自由にお使いください。