三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⒄ 2019.03.11                 

長岡大明神~神になった細川幽斎~

◆桂宮家と二人の神ー菅原道真&細川幽斎-

  長岡天満宮は、中世以来この地で祀られてきた開田天神を、江戸時代になって八条宮(後の桂宮)家が現在地へ移したものです。以後、宮家の御茶屋(別業)の内社として、正月をはじめ年に数回代参を送り、のちには代参に加えて、毎月1日に京都の桂宮邸から遥拝を行い、長岡天満宮を篤く祀っていました。明治期の「桂宮邸図」から、屋敷の西南、四脚門を入ったところの御鎮守に「長岡遥拝所」があり、灯籠がたつ石敷きの区画となっていることが、はっきりわかります。

 宮家にはもう一人、大事にお祀りしている人物がいました。それが初代八条宮智仁親王に古今伝授を行った細川幽斎です。八条宮第2代智忠親王八条宮は、父の遺志をついで下桂の御茶屋(現在の桂離宮)を再整備しますが、そのさい園林堂をつくり、宮家代々の位牌所としました。文政年間に記された「桂御別業記」には、本尊は楊柳観音で、ここに細川幽斎の像も納められていたこと、そしてこの像は「元ハ長岡古今御伝授間而影供」されていたと記されています。初代智仁親王が幽斎から古今伝授をうけた学問所が、長岡天満宮に移されて保存が図られたこと、そしてその時の古今伝授資料一式が入った箱やゆかりの品々を大切に伝えたことだけみても、第2代智忠親王をはじめとする代々の宮家にとって、幽斎が格別の存在であることがわかります。

 ◆長岡大明神の勧請

 「桂宮日記」安政6年(1859)8月20日条には、下桂の御茶屋・園林堂における供養のようすがくわしく記されています。この日は幽斎の250回忌にあたるので、園林堂内に先代の画像をかけて供物をそなえ、諸太夫らが代拝しました。

 そして、その続きにもう一つ重要な記事があります。幽斎250回忌にあたり、「古今相伝の御家においては格別」の幽斎に明神号を授けて、「長岡大明神」と崇め祀ることにしたのです。その場所は、連歌所西の池の中央にあり、もともと、ここの弁財天御堂に幽斎を合祀し、古来より「長岡之社」とよんでいたとも記されています。幕末の「長岡天満宮御境内之図」には、確かにそこに「長岡大明神」があり、今も「長岡大明神社旧址・祭神細川幽斎公」の石碑(明治末年建立)が残っています。そして安政6年の勧請以後、毎年8月20日の忌日には、宮家からの代参があり、御初穂料として金百疋がそなえられました。また、毎月1日に行われる桂宮邸からの遥拝も、長岡天満宮と長岡大明神が列記されるようになります(「桂宮日記」)。

◆長岡大明神の社役-渋谷氏-

 明治3年3月8日、長岡大明神の社役を仰せつけられたのが渋谷祐軒(改清見)です。文化12年(1815)に渋谷友(ママ)軒なる人物が、病気のため倅の勇蔵(改友善)に役目を仰せつけてほしいと、長岡天満宮の社役石原氏に願い出ていますので(「桂宮日記」文化12年2月7日条)、渋谷は石原氏のもとにいた人物であることがわかります。明治4年1月、桂宮邸雁の間において、太政官からの家禄伝達が行われました。そしてその場には、渋谷秀興が、石原方義・中小路宗元・中小路宗脩とともに列座しています(明治4年1月1日条)。その時の序列と、渋谷一族の関連資料をふまえると、地元から社役に取り立てられた人物とみてよいでしょう。

 こののち、長岡大明神社役渋谷清見は、桂宮家領上地による長岡明神遷座や、御茶屋建物引き移しの動きのなかで、重要な役割を担っていくことになりますが、それについては次回でくわしく紹介します。

 

ー参考文献ー

・高橋英男「桂御別業記に就て」『造園雑誌』2⑴.7-34、社団法人日本造園学会 1935年

・国立国会図書館206-75「桂御別業記 完」(桂離宮整備事業のための参考資料マイクロフィルム)

・鶴崎裕雄・小高道子『歌神と古今伝受』和泉書院 2018年

 

YouTube 長岡大明神社殿旧址に動画があります

 

長岡天満宮連歌所の西に「長岡大明神」を勧請する 宮内庁書陵部蔵「桂宮日記」安政6年8月小20日条(466-1冊子№573) 

幕末の「長岡天満宮御境内之図」(京都府庁文書03-0033-002「社寺録」) この簿冊に長岡大明神を描いた境内図が付されている。またこれとほぼ同じ版木(「元治元年」の墨書あり)も伝わっている(長岡京市石原義胤家文書)。


宮内庁宮内公文書館蔵 識別番号39045 桂宮邸図


明治の「桂宮邸図」に描かれた「長岡遥拝所」 鳥居のそばにあります(宮内庁宮内公文書館蔵 識別番号39045)

桂離宮 園林堂

桂離宮 園林堂 正面  扁額は後水尾上皇宸筆

 


京都御所 桂宮邸跡

 

相国寺 慈照院 桂宮家の菩提寺で、現在、園林堂にあった代々の位牌を祀っている。


仙洞御所の柿本社 享保8年(1723)、霊元上皇の主導で行われた柿本人麻呂千年忌のさい、人麻呂に神位神号が与えられた。