三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⒆附録 2019.04.11                 

桂宮家の家来たち

◆八条宮智忠親王の近習

 桂宮家は、天正18年(1590)の八条宮創設(智仁親王)から明治14年(1881)まで(桂宮淑子内親王)、290年間続いた四親王家の一つです。とはいえ、2代智忠親王以後は後嗣に恵まれず、特に京極宮と称した6代文仁親王ー7代家仁親王ー8代公仁親王以後は、空主の時が多くありました。

 そのような状況で、宮家の雅な伝統を受け継いでいくことができたのは、生え抜きの家老格(諸大夫)や代々の用人が、高い教養をもって支えていたからです。

 記録で伝わる家来たちの活躍を、幾つか紹介しておきましょう。まずは尾崎長尚です。長尚(1633-1715)は、医術をもって初代智仁親王に仕え大尾崎正房の子で、2代智忠親王の近習となり、3代穏仁親王・4代長仁親王・5代尚仁親王そして6代文仁親王に仕えた人物です。「長尚愚記」(宮内庁書陵部蔵)は、長尚が晩年に、思いだすまま親王周辺のエピソードを綴ったもので、智仁親王と豊臣秀吉の関係、智忠親王の動静、宮家に仕えた家司や侍女たちの経歴などにふれています。とりわけ開田との関係で興味深いのは、江戸下向のおり、智忠親王が前田家より「山形」いう名の馬を下され、この馬で桂から知行所の開田へ2里の道を行ったとの記載です。

 ◆京極宮代の面々

 宮家諸大夫の筆頭格が生島氏です。元禄9年(1696)7月、生島永盛は文仁親王(霊元天皇皇子)の宮家相続の礼使として江戸へ向かい、桂昌院の弟・本庄宗資に面会しました。宗資からの問いに対し、永盛は開田にある御茶屋が智仁親王の学問所で、智忠親王の時に「京都にてハ非常之儀」が心配なので、知行所の開田に移したのだと応答しています(「桂宮日記」元禄9年8月23日条)。さらに帰京後、幕府の禁裏付役人久留島通貞に報告したさい、久留島から「開田の御茶屋は無用で解体すべき」という指摘をうけましたが、「智忠親王が火災を心配して、永く残したいと思う気持ちで移したもの」と応じ、「それならば特別だ」ということで存続が図られることになりました(同8月25日条)。この後、「桂宮日記」には度々御茶屋の修理の記事がみえ、霊元上皇の援助のもと、元禄15年の万灯祭(菅原道真八百年御神忌)が盛大に行われていくのです。

 次の7代家仁親王代の家来全体がわかる史料が、京都府立京都学・歴彩館所蔵の塚田家文書にあります。塚田氏は宮家の用人を務めた家で、「私記/詮房」と題された冊子は、家仁親王(56歳)・公仁親王(26歳)・万種宮(公仁親王女・3歳)を筆頭に、一族、諸太夫、用人、中小姓、青侍、女房向まで、すべて列記されています(家司のみ【注1】に記す)。ここには住所・役職・年齢などの注記もありますので、宮家の面々を知るうえで、とても貴重なものです。

 ◆長岡御役所

 長岡天満宮の祭祀や維持は、元禄9年11月より祝詞師石原氏と中小路2家、および地元の宮仲間に担われていくことになりすが、社殿の造営や大きな行事のさいには、宮家から臨時の担当者がおかれました。たとえば、享和2年(1802)の菅原道真九百年御神忌のさいには、塚田主税と長屋正親に「御祭会御用掛」が申付けられ、祭祀全般を差配し、終了後は万端を筆記した「雑記」を作成しています。

 また境内には長岡詰所、または長岡御役所とよばれる建物があり、宮家の役人が下桂の茶屋との間を行き来していました。弘化2年(1845)には、その長岡御役所が焼失するという事件がおこりますが、宮家からは尾崎縫殿頭・小野隼人・朝倉修理・酒井大学・高木長門介らが対応にあたりました。

 ◆桂宮廃絶と宮家遺産の引継ぎ

 このように、天正18年の創設から江戸時代をとおして、家司らは代々の親王に仕え、儀礼・法事を勤め、交際・饗応に励み、屋敷や諸道具を管理し、知行所や下桂の渡し場などの勘定を行い、宮家の格式と伝統を守ってきました。

 しかし、明治維新・・・。明治4年1月10日、生島雅喬ほか35名【注2】は、雁の間に集められました。岩倉具視の命で家令となった宇田淵が着座し、これからは京都府貫属士族となり、それぞれに家禄を下賜するという太政官沙汰の奉書切紙が伝達されたのです。生島はじめ諸太夫格別は現米21石で、次いで15石、12石・・・と続き、最後の長岡大明神神主の渋谷秀興が2石です(「桂宮日記」明治4年1月10日条)。

 桂宮邸には宮内省支所がおかれ、西京政策や京都御所保存の拠点となります。御所で開催される京都博覧会、宮中祗候の新設、京都御所の管理、明治天皇や皇太后の行幸接遇など、家令宇田淵と宮家の家来たちは様々な実務に奔走しました。たとえば、明治10年7月25日、古今伝授資料をみたいという明治天皇の意向が宇田淵に伝えられ、28日に平岩道義が後西院・桜町院勅封の伝授箱を持参しました。また、明治13年7月17日に、桂宮邸で行われた献上能では、宮内省点検のもと天覧所・舞台を設営し、皇族対応・乱舞掛・受付・飲食方など、総出で分担した様子が詳しくわかります(同7月16日~17日条)。

 しかし明治14年10月3日、11代淑子内親王の死によって、ついに桂宮家は廃絶となります。記録・書画や美術品は主殿寮や図書寮に委ねられ、下桂の茶屋と諸道具は明治16年に宮内省所管となり、明治19年2月28日、今出川桂宮邸の諸建物や金員は主殿寮に引き渡されました。元禄元年(1688)から代々の家来たちが書き継いだ「桂宮日記」(現装631冊)は、明治19年のこの記事が最後となっています。桂宮伝来の夥しい記録や親王ゆかりの典籍、そして美しい諸道具の品々を目にすると、激動のなかで宮家遺産の引継ぎにあたった家令宇田淵の労苦と、長い間宮家を支えてきた家来たちのたゆまぬ努力を思わずにはいられません。

 

【注1】生島勝盛 生島紀衡 尾崎正就 尾崎重為 瓜生詮忠 浅倉恭京 平岩本考 乾信□ 塚田経房 速水房矩 瓜生□真 松室重方 広庭祐倫 高木教貞 遠藤高乗 岸田定條 渡部孝雅 小野一英 渡部屋(ソノフ) 土屋伻履 高木重頼 多羅尾光紀 渡部季起 坂井義寛 井原光寛 加藤永忠 小川知道 松永正晴 加藤政寿 守能宗信 服部良□ □□光明 綾参体 速水時房 坂井義道 岡村伝左衛門 築山磯之進 山田源光 中小路宗幸 中小路宗哲

【注2】生島雅喬 尾崎正康 生島宣□ 高木重寛 塚田季慶 朝倉為重 坂井義復 平岩道義 牧定固 新庄重賢 黒川直温 小野秀満 瓜生竹久 渡辺盈 速水房慶 乾正孝 長谷慶正 田中資文 松永恒久 小川義信 石原方義 土屋正安 多羅尾光吉 生間正晸 岡村恭基 中小路宗元 山田為光 綾徳定 加藤永祥 山本良能 守能清称 井原光運 遠藤光徳 服部恒徳 中小路宗脩 渋谷秀興

 

ー参考文献ー

・京都府立京都学・歴彩館 京都の記憶アーカイブ「塚田家文書」(古文書/館古039)解題

・嗣永芳照 「長尚愚記」『書陵部紀要』第35号 宮内庁書陵部 1984年

・西和夫「古今伝授の間と八条宮開田御茶屋」『建築史学』第1号 1983年

・荒井朝江・西和夫「二条城本丸旧桂宮御殿の前身建物とその造営年代について」 日本建築学会計画系論文報告書集第387号 1988年

・宮内庁三の丸尚蔵館『桂宮家伝来の美術ー雅と華麗』 1996年

吉岡眞之・藤井譲治・岩壁義光『桂宮実録』全7巻 ゆまに書房 2017年

桂宮邸跡

桂宮邸跡(今出川御門から) 庭園と長岡大明神が保存されている。

相国寺慈照院

相国寺慈照院 初代八条宮智仁親王以下代々の墓所。2代智忠親王の学問所「棲碧軒」があり、下桂の茶屋(園林堂)にあった位牌もここに移されている。


雁の間 二条城本丸の旧桂宮御殿修理説明板より

二条城旧桂宮御殿

修理が進む二条城本丸の旧桂宮御殿(2019年1月撮影) 明治26年移築