三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⒇ 201904.17                 

近代の名勝公園へ~菅原道真千年御神忌~

 ◆「京華」のブランド-平安遷都千百年紀念祭-

 明治維新によって桂宮家の庇護を失い、村社として再出発した長岡天満宮。その様子がわかる資料は多くありませんが、明治16年(1883)、「西岡学会」(学術研究会)を長岡天満宮連歌所で定期的に開催しようとする地元有志の動きが起こり(徳重文書『京都百年の資料』政治行政編)、新しい時代の息吹を感じることができます。

 長岡天満宮の名勝としての評判は高く、度々新聞に報じられ、また京都の銅版画家石田有年の「京都名所五十景」に「洛南長岡社」(明治25年9月)として

収められています。これは大池を北から描く珍しい構図で、当時の雰囲気を伝える貴重なものです。

 長岡天満宮が名勝として再評価された大きなきっかけは、平安遷都千百年紀念祭事業にあります。その時のようすを、長岡天満宮文書【注1】と紀念祭主催者の資料から追ってみましょう。紀念祭にかかる社寺名勝保存補助事業は明治26年(1893)3月より始まりました。対象とする基準は①「桓武天皇ニ御由緒ノ歴然タル最古ノ建造物ニシテ大破セルモノ、②「古来ノ由緒正シクシテ著名ナル建築アルモ大破ニ及ヘルモノ」、そして③「本市接近ノ名勝中最モ著名ナルモノニシテ目下破損スルモノ」の3点で、特に桓武天皇ゆかりの案件が重視されました(『平安遷都紀念祭記事』)。

 明治26年5月3日、京都府知事千田貞暁から長岡天満宮祠掌丸岡宗太郎へ紀念祭事業の案内が届き、丸岡は5月30日、修繕設計書差出しのため事務所に向かいます。10月10日には修繕費用及び設計について、式典部委員・府庁委員立会のもと「聞糺」が行われることになり、「長岡天満宮及旧都遺跡」が第一着分として掲げられています(「事務報告」明治26年10月3日項)。10月25日には修繕見積更生書を提出し、同月31日には「天満塚ヨリ発掘セシ器物ノ件」について報告しました。長岡天満宮は12月26日、もう一度修繕見積更生書を提出しています。紀念祭事務所の審査は、限られた時間なかで高い質を求める厳しいものでした【注2】

 この時補助の対象となった寺社と金額を、表に示しました(『平安遷都紀念祭記事』)。長岡天満宮には本社・拝殿の修繕に対して50円が補助されたことが、この一覧からわかります.。そして紀念祭の事業として出版された『平安通志』に「長岡」が【注3】、『京華要誌』に「長岡天満宮」の項目が掲げられ、近代における名勝としての価値が不動のものとなりました。

 

◆近代の名勝公園へ-「長岡公園増築」趣意書-

 平安遷都紀念祭への参加は、長岡天満宮に対する地元意識を高揚するうえで、大きな転機となりました。長岡天満宮に伝わる明治32年発行の銅版画「長岡天満宮之景」(名古屋彰光館製版)は、紀念祭直後のようすを描いた貴重なものです。

 そしてさらに大きかったことは、「長岡宮城大極殿遺址」石碑建立と合わせて「長岡」への関心が広まり、京阪の政財界や文化人の人脈を得て、近代的な名勝保存のノウハウを獲得したことです。明治35年の菅原道真千年御神忌をひかえ、「長岡公園増築発起人」と長岡天満宮祠掌丸岡宗太郎は、「境域を擴め、園林を修め、以て公園の体を搆造して神威を戴き、京阪及ひその他汎く公衆の快楽地と為し、以て大祭の盛儀を挙んとす」とする趣意書【注4】を発行し、「公園のような名勝」をつくろうと寄付を募ります。奥書に、地元の有力者・京阪の政財界人ら発起人122名・賛成員155名の名があり、賛成員のなかに内貴甚三郎・雨森菊太郎・湯本文彦など、平安京1100年紀念祭の主力メンバーらも加わっています。この冊子には、名勝公園として再生を図ろうとする当時の雰囲気が満ち溢れていますので、折り込みの完成イメージ図と趣意書全文を紹介しました。

 残念ながら、この時の千年大祭の様子はわかりませんが、明治35年に開田龍組青年夜学会が奉納した絵馬が残っています。中央の山車には「天満宮千年」の赤い旗がひらめき、梅や松の法被姿の老若男女が囃したり、踊っている様子が描かれ、画面から地元開田の人たちの誇りとエネルギーが伝わってきます。

 

【注1】「明治26年平安京遷都1100年紀念祭関連修繕書類綴」件名目録 (長岡天満宮蔵)

①明治26年7月11日「高塀修繕ニ付願」長岡天満宮祠掌丸岡宗太郎→京都府知事千田貞暁 ②明治26年7月20日 京都府知事千田貞暁(公印)「巽第3246号高塀修繕聞届書」 ③明治26年4月「名勝旧跡建札掲示について通知」新神足村役場→長岡社祠掌丸岡宗太郎 ④明治26年5月3日「建都紀年祭及内国勧業大博覧会執行ニ付案内」(蒟蒻版) 千田貞暁→長岡天満宮祠掌丸岡宗太郎 ➄明治26年12月8日「有志金募集之儀ニ付御願」長岡天満宮祠掌丸岡宗太郎ほか→京都府知事中井弘 ⑥(明治26年5月ヵ)「各社寺祭典法会其他執行ほか案内」(蒟蒻版) ➆明治26年3月14日「枯木伐採願」長岡天満宮祠掌丸岡宗太郎ほか→乙訓郡長荒井公木(これを認める4月4日付の奥書がある)

 

【注2】「平安遷都紀念祭事務所より照会状」(京都府立京都学・歴彩館蔵 乙訓自治会館文書№43「長岡宮城大極殿保存ニ関する一件」)

 (朱書)「立第三一乙号」

其遺蹟保存工事之義ハ其後如何様御進相成候哉、明年記念祭ヲ挙行及博覧会ノ開設有之、其際来遊内外国人ニ対シ遺蹟保存上ニ関シ見苦シカラサル様致置トノ趣旨ヲ以テ夫々補助候義ニ有之、此儘空シク時日ヲ経過候テハ、或ハ明年之時期ニ相後レ候哉之懸念有之候ノミナラス、当初之趣旨ニ相反シ候様相成候間、右工事着手之模様至急御申越相成度、此段及御照会候也

   明治廿七年十月三日 平安遷都紀念祭事務所(公印)

 

【注3】『平安通志』十五 巻之四十六  (京都市参事会 1895年)

 長岡

長岡ノ西南、神足村字開田ニアリ、西小岡ヲ負ヒ、東大塘ニ臨ミ、梅・桜・楓樹・躑躅多ク池中ニ長隄アリ、石橋ヲ架ス。池西ニ水亭酒棲相伴ヒ又軽舟ヲ池ニ浮フ、四時ノ景致皆宜シ、且ツ南郊数里ニ在リ、市塵ト相離レ清雅ノ遊ヲ為スヘシ、又汽車ノ便アルヲ以テ遊人常ニ多シ、洛南ノ名勝ナリ。

 

 【注4】『長岡公園増築寄付金芳名録』趣意書(全文) (長岡京市教育委員会蔵)

山水の秀霊能く健康を養ひ、花鳥の芳喈亦能く精神を娯ましむ。古今庭苑の設けあるもの皆この諠に憑さるはなし。而して神を遊はし健を補ふは抔土盆池の及ふ所にあらす。山高く潤濶くして初めて其霊を迎ふへきなり。

我長岡天満宮の境域たるや西に小阜負ひ、東に大塘を臨み、池中長堤ありて常に清々たる藍影を湛へて水禽を遊泳せしめ、池汀に亭樹酒屋相併ひて又軽舸を泛はしむ。梅・桜・楓樹四時に交代して雲を蔽ひ錦を織る。其躑躅の盛時に於ては千畳の紅壇満地に布かれ、邦内未聞の美観たり。然れとも園林修めさること多年、樹茂り、草深くして朽株・敗枝路を塞ぎ、喈々たる好鳥独り其棲を恣にして、却つて人楽む能はす。山径荒に就きて芬々たる香花を発るも人到るに能はす。故に市塵を遠かりて清雅の遊興は盡すへしと雖も、未た公衆を容れて広く運動の地に充て健康を養ふにわ足らずと為す。是れ此名山媚水を得て而して文明の利用に乏しきを甚だ遺憾とし、以て公園を増築せんと欲する所以なり。

謹て長岡天満宮の創起を案するに、此地正しく菅原家の家領に属し、住民東小路祐房出て菅原家に仕へ忠実の名あり

菅公幼児業平朝臣に伴へ数次此苑池を愛観し玉ふ。昌泰四年の春筑紫左遷の時祐房其謫所に随従す。途次此長岡に宿し帝城別離を嘆嗟の余り、庭中真榊の枝を執り吾霊茲に留るへし、是枝長く栄へんと祝して地に挿す。亦一首を詠して以て北の方に贈らる曰

君かすむ宿の木末をゆくゆくも かくるゝ迄にかへり見るかな

祐房宰府より帰洛に臨み公の自刻の像を賜はる。護送して以て茲に奉仕す。御詠に依りて見かへり天神と称し榊栄へて森々とし、社殿成りて長岡天満宮と号し奉る。

応仁の兵燹に回禄の厄に遭ひ、明応7年十月再建あり、元和年中八条宮智仁親王殿下の領土に帰し、延宝四年本社・摂社御再造となりたり。元禄元年地震の為め傾壊の難に罹るも、同二年霊元上皇社殿及ひ諸建造物を御再営あらせられしもの即ち現今の祠宇にして、同年六月院使を以て天満宮の宸筆を社頭に掛られ、六々歌仙の色紙奉納ありて皆什宝とす。

邦内菅公奉仕する神社幾百千宇を知らすと雖も斯の如く領地と云ひ、詠歌と云ひ因縁深く由緒正しく神霊洵に照臨し玉ふは稀有いふへし、依て其神霊を慰め奉らん為め一千年の大祭を執行せんと欲して既に其期は僅に一年を余せり。此間境域を擴め、園林を修め、以て公園の体を搆造して神威を戴き、京阪及ひその他汎く公衆の快楽地と為し、以て大祭の盛儀を挙んと欲す。冀くは有志の諸君、美挙を賛同して以て洛南の名勝を興立あらんことを。

長岡公園増築設計の概略

一 現在の道路を変し、池中長塘と直線の詣路を圃中に設ける事

一 新造詣路の塘畔に木造大鳥居を建る事

一 長岡幽斎法印の邸趾に紀念木標を建る事

一 右邱趾の荊蕀を芟り、林樹を透し瀑布を落さしむる事

一 紫竹林を脩むる事

一 境域の北方を擴め、酒亭を移転せしめ公衆遊楽の空地を求むる事

一 池中の中島を増築し、橋を架け、詣路を設けて天女祠を建る事

一 境域西方の山頭に道路を脩むる事

一 所々に離亭・四阿屋等の休憩所を設くる事

一 絵馬堂畔の角觗場を保護する事

一 同所に駆馬場を設くる事

一 南方の小池に土橋を架し、花壇を設くる事

一 本殿・拝殿・絵馬所其他付属社を修繕及び改築する事       

  以上

前記其概略を挙るに過きすと雖も、節目多く巨額を要し微力を以て充難し故に四方有志の義捐を仰きて建造増築の資となし、尚佳木奇石の寄贈を請ふて、以て洛南の名勝を保護し、以て公衆の歓楽地と為さんとす。請ふ補助賛同あらん事を。

  長岡公園増築発起人等

  長岡天満宮社掌丸岡宗太郎  敬白

     発起人(稲本源兵衛ほか121名)  賛成員(井上正永ほか154名)

 

 ー参考文献ー

・『平安遷都紀念祭記事』巻下 京都市参事会 1896年

・「平安遷都紀念祭事務所事務報告」『叢書 京都の史料』10 京都市歴史資料館 2008年

・高木博志「明治・大正期の長岡天満宮の整備」『長岡天満宮資料調査報告書』古文書編 長岡京市教育委員会 2014年

・『幕末明治・京都遊覧ー銅版画の世界ー』宇治市歴史資料館 2018年 

宇治市歴史資料館蔵 石田有年「都名所五十景」のうち第30号 明治25年


平安遷都1100年記念祭の社寺及勝地保存費補助額一覧表 (明治29年5月 京都市参事会発行『平安遷都記念祭記事』巻下より)

名称 指定箇所 補助金

 

   

名称 指定箇所 補助金
熊野神社 拝殿ほか 200円    若王子神社 本社ほか 400円
金地院 方丈 800円   慈照寺 銀閣 600円
高台寺 法堂璽舎 300円    広隆寺 太子堂 800円
平等院 鳳凰堂内部 300円   東福寺 山門 1500円
叡山道 八瀬~黒谷 150円   田村将軍塚 修墓 200円
大報恩寺 本堂内陣 50円   勝持寺 本堂ほか 100円
神護寺 太子堂 50円   萬福寺 法堂・山門 1500円
青蓮院 宸殿再建 500円   長岡天満宮 本社・拝殿 50円
妙法院 太閤塀・方丈 400円   西寺 再建 50円
金蔵寺 全体 50円   長岡旧都遺跡 保存・建碑 200円
宇治上神社 本社・拝殿 100円   鞍馬寺 全体保存 50円
醍醐寺 金堂ほか 300円   浄蓮華院 御影堂ほか 30円
神泉苑 苑池浚渫 50円   高山寺 石水院本社 300円
百川公墳墓 修墓 200円   仁和寺 150円
建仁寺 方丈 200円   法金剛院 20円
南禅寺 方丈 500円        

この表の内、長岡宮城大極殿遺址・田村将軍塚・百川公墳墓の3箇所は、「特別ノ由緒アル者ニシテ、今回始メテ表彰」として、建設の顛末が記されている。

長岡天満宮図 『京華要誌』 京都市参事会 1895年

(本文)社傳に拠るに往古弘法大師の開基なり。真言宗の精舎あり。世々徒弟等住職したりしよし。菅公幼年のころ長岡に閑居せし在原業平卿を音つれ、おりおり伴ふて此精舎にあそひ詩歌管弦の催しなとあり。昌泰四年菅公謫遷のとき寺僧別れを惜み淀より鵜殿のあたりに送りしとき、菅公自から小照をうつし授けたまふ。菅公薨去のこの地に祠をいとなみ其の真影を安置したりとそ。星霜かさなりて寺院は荒廃したれとも菅廟は依然として存し、都人参詣の絶間なし。

境内社前に広大なる池塘あり。側らに数百株の花樹を植えたれは梅・桜の咲きみたれ、堤上香雲彩霞をむらからし、夏には著名の躑躅・杜鵑花碧波に映りて燃ゆるか如く美観いはん方なし。秋の末に紅葉の霜に飽き碎錦團霞を水中に倒影するなと四時の眺め飽くことを知らず。特に地形は長岡の高阜に拠り、東山一帯より南は鷲峯山等諸山を望むへく春晩菜花の頃満地布金の眺めはまた一段の好風景なり。池辺二三の旗亭あり。酒を呼ふへし。実に西郊名区の一にして都人散策の勝地なり。

「長岡天満宮之景」(銅版画 名古屋彰光館蔵版) 明治32年 長岡天満宮文書 画像提供:長岡京市教育委員会。同じ年に名古屋彰光館から発行された類例3点が、『幕末明治京都遊覧』(宇治市歴史資料館)で紹介されている。


「山城国乙訓郡長岡天満宮境内全図」(長岡京市教育委員会蔵『長岡公園増築寄付金芳名録』付図)表紙の次に織り込みの境内全図、趣意文、発起人122名、賛成員155名と続き、最後に白紙の罫紙が綴じ込まれている。


●●百瀬ちどりの「楓宸百景」「三思一言」●●●