三思一言 勝龍寺城れきし余話(21) 2022.09.15

混迷の三好氏小塩庄御警固 -「随心院文書」を読む-

◆小塩庄と随心院

  随心院(京都市山科区)は平安時代中期、仁海によって創建された牛皮山曼荼羅寺の法脈を受け継ぐ真言宗の寺院です。第五世像増俊の時に子房として随心院が建立され、第7世親厳代の寛喜元年(1229)に堀河天皇より門跡の宣旨をうけ、以来九条家・二条家・一条家から子弟が門跡として入寺し、摂関家と深いつながりをもちました。九条家と一条家は鎌倉時代の建長2年(1250)、九条道家が「終老之地」として東山毘沙門谷に創建した光明峯寺の根本所領・小塩庄を交互に管轄しましたので、随心院もしだいに小塩庄の経営に深く関わるようになったのです。

 しかし応仁・文明の乱で光明峯寺や随心院は焼失し、光明峯寺と一体になっていた随心院厳宝は、実父一条兼良と共に、興福寺大乗院の尋尊(厳宝の兄)を頼って奈良に疎開。このころ小塩庄の年貢は一条家の家政を支えており、兼良は小塩庄の内「山崎分」を厳宝に与えています。伽藍を失った随心院は、九条唐橋、相国寺東、東寺内へと転々とすることを余儀なくされました。

 乱後の明応4年(1495)、随心院は小塩庄の別当となり、九条家の子弟が門跡として入寺するようになったことから、九条家との関係が親密になっていきます。随身院忠厳は九条政基の猶子(兄政忠の子)で、永正2年(1505)10月に、政基が小塩庄のうち神足拘分3ヵ郷(神足・古市・勝竜寺)の年貢収納を目指して下向した時にも同行しています。

・三好長慶の勝龍寺普請と随心院代官・四手井(しでのい)氏

 九条政基の小塩庄下向が不調に終わったのち、今度は九条家・随心院、光明峯寺供僧や家人などの間で、激しい相論が繰り返されます。この後随心院は、九条家との摩擦が続くとはいえ、小塩庄支配を主導するようになり、時の政権と連動しながら武家代官を起用しました。三好長慶の権力が確立されたころ、小塩庄代官となったのが、山科に本拠を持ち、長慶被官となっていた四手井家保です。弘治2年(1556)の収納はこの四手井によるもので(「小塩庄納米・納銭注文」九条家文書)、山崎からは銭で納められていることがわかります。

 ここでもう一つ、四手井家保が京都周辺の侍たちと徒党を組み、三好長慶の被官として活動していたことがわかる「今村慶光等連署書状」(東寺百合文書)を紹介しましょう。差出人は家康と今村慶光(柳原)・中路光隆(下桂)・寒川運秀(上久世)・渡辺勝・小泉助兵衛(西院)・中澤継綱(大原野)・物集女国光(物集女)の8名。東寺に対して「このたびの勝龍寺普請は、三好長慶から命じられた火急の事なので、守護不入(免除)は認められない」として、東寺領からの人夫供出を督促した書状です。三好方が拠点とするための「勝龍寺普請」を行ったことや、小塩庄代官に任じられた四手井氏の立場をよく示す貴重な史料です。

・和久是徳と三好三人衆の小塩庄関与

 三好長慶死後の永禄8年(1565)5月、三好三人衆と松永久秀が将軍足利義輝を暗殺し、やがて三好義継・三人衆と松永の対立が表面化します。このことは小塩庄にも影響を及ぼし、松永派の四手井氏にかわって、三人衆派の和久是徳が小塩庄に関与してきます。和久は、義輝が三好義長(長慶の子・義興)邸を訪問した際に進物奉行を務めた三好氏家臣です。随心院には、和久氏と随心院家来の本間氏や北小路氏の間で取り交わされた書状等が、16通も伝わっています。『長岡京市史』資料編二においてすべてが翻刻されていますので、主要な内容の一を紹介し(PDF)、そのうち2点を随心院様の御高配のもと、写真を掲載させていただきました。

 永禄8年12月30日、是徳は四手井が取沙汰をしていた筋目をもって三好義継から申し付けられたと、御警固の補任を随心院に申し入れます。このことは山崎の百姓中にも伝えてあり、物騒で地子収納の下向が難しいのなら、私に警固をさせたらよいという言い分です。この申し入れは三好長逸・三好政康の折紙付でした。

 以後随心院側との条件面(得分が半分か、三分一かや補任の日付等)での折衝が続き、随心院側は三好長慶の時の「守護不入」に相当する保証、つまり長逸と政康の連署状を強く求めます。御警固補任が決まったのは翌永禄9年3月25日のことです。

 しかしさっそくいろいろな問題が起こります。随心院家来が年貢催促のため下向したところ、松永久秀方の物集女久勝や小泉助兵衛の妨害があり、和久は長逸・政康署判の案文を百姓中へ配り、さらに違乱があるようであれば「強の譴責」をもって対処すると、誓紙をもって伝えています(5月15日付書状)。これら随心院とのやりとりの中で、和久は長逸・政康の連判だけではなく、「上様」(足利義親→永禄11年2月将軍宣下で義栄)の存在をちらつかせています。

 永禄10年3月、和久が三好三人衆の一人・石成友通(勝龍寺を拠点)に不審を申し入れたところ、世情雑説につき「西岡表明所(領主が不分明な地)」を「惣次に申し付ける」(取り調べて収公?)との話。このころ海沼弥三郎の競望もあり、和久と随心院はいっそう確実な小塩庄安堵(「上様」の補任状)を得るために、郡山・西宮まで対面交渉にでかけました。そして6月19日には、「海沼ついては芥川で糾明する」との三好政康の書状を受け取っています。

 しかしこの三好三人衆の勢力は、永禄11年9月の「信長入京」によって瓦解し、勝龍寺に立て籠もっていた石成友通は淀へ退却するも戦死。小塩庄は、三好氏に代わる信長の代官日乗朝山によって安堵されます。そして天正2年(1574)には、前年に西岡一職支配を認められた勝龍寺城主・長岡藤孝が代官となって、新しい時代へ向かっていくのです。

 

-参考文献-

・『長岡京市史』資料編二・本文編一

・野田泰三「西岡土豪の十六世紀」『乙訓文化遺産』25号 乙訓の文化遺産を守る会 2021年

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和久是徳関係文書一覧表.pdf
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小塩庄略年表.pdf
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