三思一言 勝龍寺城れきし余話⑴ 2020.04.11

 


『勝龍寺城は語る』


◆寺院と城郭

 今から10年前、2010年は細川幽斎没後400年にあたり、各地で展覧会の開催や特集刊行物の出版が相次ぎました。京都国立博物館で開催された「細川家の至宝ー珠玉の永青文庫コレクションー」をワクワクして観覧したことは、“好き思い出”です。長岡京市史編さんのため熊本大学寄託の細川家文書を調査させていただき、また勝竜寺城公園の展示のため東京の永青文庫にも足を運びましたが、「至宝」を網羅的に目の当たりにできたのは幸運だったというほかありません。

 京都国立博物館(旧館)の重厚な建物に入り、まず第一室の正面・プロローグを飾ったのは勝龍寺の聖観音立像(鎌倉時代)でした。勝龍寺には「快慶・日本人を魅了した仏のかたち」(奈良国立博物館2017)で初出品された美しい菩薩立像や二天立像なども伝わっており、知る人ぞ知る由緒深き寺院なのです。中野玄三先生は、青年のように頬を紅潮させ、感嘆の溜息を漏らしてこれらの仏像をご覧になられました。

 勝龍寺は空海によって大同元年(806)に開基され、応和2年(962)に千観が祈雨の効験によって勝龍寺と改名したという寺伝があります。平安時代のようすを知る手がかりはわかっていませんが、鎌倉時代以降は資料でその歴史を辿ることができます。勝龍寺は京都-大坂の交通の要衝にあり、寺はたびたび戦乱に巻き込まれ、数多の武将たちの城となりました。たとえば応仁・文明の乱では西軍畠山義就の陣城となり、永禄11年(1568)の織田信長入京のさいには、三好三人衆の一人岩成友通の立て籠もる城とその周辺で激しい戦となったのです。

 寺蔵の快慶作と目される菩薩立像の台座墨書には、文明10年(1478)に勝龍寺蓮池坊が、また永禄7年に専勝坊が願主となって修復したとあります。絶え間ない戦乱のなかで寺院はどのような役割をもち、変化・変容していったのでしょうか。細川藤孝の勝龍寺城普請を考えるときも、欠かすことのできない大切なテーマの一つです。このシリーズでは最新の城郭研究をふまえ、勝龍寺に関する記録や資料も交えながら「勝龍寺城」を考えてみましょう。

◆勝竜寺城公園と神足公園

 勝龍寺城は京都のお膝元にあって、常に歴史を揺るがすような大事件の渦中にありました。そして豊臣秀吉の太閤検地によって城は勝龍寺と神足の南北二つに村切りされました。江戸時代になると勝龍寺の法灯は専勝坊が受け継ぎ、村の檀那寺として再生が図られたのです。

 時代の流れの中で城跡は徐々に変容していきますが、それでも細川藤孝築城時の総構(土塁、濠・堀)は、往時の名残をとどめ、史跡として人々に認識されていました。しかし昭和30年代の高度経済成長期をむかえて、城跡は大きな転換点に直面します。藤孝期の主郭や周辺はすべて民有地(一部の区有地を含む)となっていましたので、迫りくる都市化の波のなかで手を拱いて遺跡が潰れるのか、それとも積極的な保存策をたてていくののかという岐路にありました。農業用水として欠かせなかった濠の湧水は枯渇し、鬱蒼と茂る竹藪はもはや歴史を感じる風景から厄介扱いとなり、文化財を守るという立場と共に、地域住民の生活環境保全という問題の両立に迫られていくのです。

 そのようななかで昭和63年(1988)、新しいまちづくりの一環として城跡を都市公園しようとする動きがおこります。勝龍寺城跡(本丸・沼田丸)の発掘調査が始まったのは昭和63年(1988)のことでした。当時の五十棲辰雄市長は、整備のポイントとして①近隣住民の憩いの場、②歴史的事実を踏まえた施設、③水と親しむことのできる施設の3点をあげています。全国的な城ブームを背景に、一乗谷朝倉館や甲府武田館の史跡整備のノウハウがあったとはいえ、当時としては先駆的な取り組みだったことはまちがいありません。公園整備の座長を務めた近藤公男先生は、文化財を市民が守り育て、感銘を得る都市将来像に公園整備が寄与するようにと述べておられます。そして3年の歳月をかけて勝竜寺城公園は完成し、平成4年(1992)11月、第1回ガラシャ祭りが盛大に開催されました。

 もう一つ重要な課題が、都市化の波から辛うじて免れていた神足の外郭土塁を保存・整備することでした。ここも民有地でしたが、勝竜寺城公園で培った力で長岡京市が買い上げ、調査・整備を経て平成27年に神足公園が完成しました。このシリーズでは、遺跡が公園として将来へ託されたこの30年余りの動きにも視点を向けてみましょう。

◆研究史を紐解く

 『勝龍寺城が語る』の小冊子は、昭和63年7月から平成元年12月まで「市民新聞しんぶん長岡京」に掲載されたコラムをまとめたものです。勝龍寺城への理解を深めてもらおうと、市民にむけて城の歴史や言い伝え、関わりのある人物が紹介され、都市公園実現への期待とメッセージが込められています。

 一方では『長岡京市史』の編さんが精力的に進められ、ここには発掘成果や細川家文書等の文献資料が網羅的に収載され、その後の勝龍寺城研究の基礎となりました。

 そして細川幽斎没後400年にあたる2010年以降、次々と重要な資料の活字化と図版の公開が進み、勝龍寺城やその時代に関するさまざまな分野の研究、そして幽斎の人物像への理解が格段に深まっています。このシリーズでは、参考文献を紐解きながらこれまでの研究史を辿り、改めて学んでいきましょう。

 

ー参考文献(最近)

・『勝龍寺城は語る』 長岡京市教育委員会 1991年

・『長岡京市史』全7巻 1991~1998年

・『細川家の至宝 珠玉の永青文庫コレクション』 京都国立博物館 2010年

・『細川幽斎 戦塵の中の学芸』 笠間書院 2010年

・『細川家文書 中世編』 永青文庫研究センター編 吉川弘文館 2010年

・『武将幽斎と信長 細川家古文書から』 熊本日日新聞社 2011年

・『図書尞叢刊 智仁親王詠草類』一~三 宮内庁書陵部編 明治書院 1999~2001年

・『細川幽斎と舞鶴』 舞鶴市教育委員会 2013年

・『図書尞叢刊 古今伝受資料』一~ニ 宮内庁書陵部編 明治書院 2017~2019年

・『兼見卿記』第1~7 史料纂集 古記録編 八木書店 2014~2019年

・『乙訓・西岡の要 勝龍寺城』 長岡京市埋蔵文化財センター 2017年

・『歌神と古今伝授』 和泉書院 2018年

・『幽斎と光秀 花開く武将文化』 京都府立山城郷土資料館 2020年

 

勝龍寺

勝竜寺城公園

神足公園