三思一言 勝龍寺城れきし余話⑶  2020.05.19

勝龍寺城天主と「古今伝受座敷模様」

◆八条宮智仁親王筆の「古今伝受座敷模様」

 幽斎没後400年を記念した展覧会「細川家の至宝」。細川家伝来のお宝がズラリと並ぶ中に、桂宮(八条宮)家伝来の「古今伝受資料」の一群がありました(宮内庁書陵部現蔵)。八条宮智仁親王との縁(えにし)をぬいて、幽斎を語ることができないからです。

 慶長6年(1601)正月、八条宮智仁親王は細川幽斎に試筆歌を送り、再び古今和歌集の修養を再開しました。幽斎から智仁親王への古今伝授は、前年の3月に開始されましたが、関ヶ原の合戦で中断していたのです。田辺城籠城で死を覚悟した幽斎は、急ぎ証明状を送って伝授修了とみなしていましたが、智仁親王は京都に滞在するようになった幽斎との交流をさらに深めます。幽斎が八条宮邸に祗候して再開された講釈や連歌会のなかで、智仁親王は「伝心抄(三条西実枝から幽斎へ伝えた講釈)」を書写し、幽斎から教えられた「古今集聞書(講義ノート)」を何度も推敲し、ついに慶長7年11月29日、清書した「聞書」に幽斎の加判奥書を得て、正真正銘の伝受者となったのです。

 八条宮智仁親王の『古今伝受資料』の箱は、勅許なしには当主といえども開見できない重宝として宮家に伝わりました(宮内庁書陵部蔵では「伝受」の表記を用いる)。「古今伝受座敷模様」は一式110点のなかの1点で、幽斎講釈の勝龍寺城「殿主」における切紙伝授のようすを、慶長7年8月14日に智仁親王が書写・校了したものです。関ヶ原合戦で中断を余儀なくされ、正式な儀式を経ないまま、戦乱の渦中で証明状をうけとった智仁親王にとって、師が直々に教授した儀式マニュアルは、とても大きな意味があったにちがいありません。

◆「座敷模様」のイメージ

 それでは、この「座敷模様」を読んでみましょう。宮内庁書陵部から写真掲載のお許しをいただきましたので、ぜひ解読に挑戦してください。しかし言葉だけではなかなかわかりませんので、「古今伝授ノ図」(江戸時代前期 永青文庫蔵)を援用しながらイメージ図もつくってみました。

 冒頭・字下がりの3行には、天正2年(1574)6月17日、古今集切紙(秘伝を記した一枚の紙)を「勝龍寺城殿主」において「三条大納言(実澄、後に実枝)」殿より御伝授があったと明記されています。

 続く6行は、そのときの座敷のようすです。座敷は殿主の上壇(段)にあり、東面に歌聖柿本人麿呂の像を掛けました。東面を東側と解釈することもできますが、城の正面が東にあるので、東向きとしてみました。その正面に机をおいて香炉・洗米(あらいよね)・御酒を供え、手箱に三種の神器(鏡・太刀・勾玉)を置き、その上に錦を張ります。文台(ぶんだい)を挟んで北面に「亞相(実澄)」・南面に長岡藤孝が着座。座には布一端が敷かれました。そして17日に切紙18通、18日に切紙10通が伝授されたことで結んでいます。智仁親王の「古今伝受資料」には、この時に用いられた錦・布と、伝授された切紙が伝わっており、「座敷模様」の書写が存在することの内実を如実に示しています。

◆勝龍寺城「天主」の新資料発見

 さて、「殿主(てんしゅ)」は「天主」と同義だと理解してよいでしょうか。幽斎の友人である吉田兼見は、明智光秀の坂本城に訪れたさい「城中天主」の作事をみてその立派さに驚き(元亀3年12月24日条)、「天主之下立小座敷」で連歌師昌叱と対座し(天正元年6月28日条)、「小天主」で茶湯や夕飡を振舞われたこと(天正10年正月20日条)を記しています。また豊臣秀吉の大坂城に招かれ、秀吉直々の案内で「殿主」を見物したさいには、「八重計歟」・「七珍万宝」とその見事なようすに感嘆しています(天正15年2月29日条)。つまり兼見は「天主」と「殿主」を併用しています。勝龍寺城には今も一際高い方形の土塁跡が残り、発掘調査から天主を備えた先進的な城の姿が復元されていますので、「殿主」=「天主」とよぶべき高層の建物が存在していたと考えるのは、妥当なことといってよいでしょう。

 とは言え、もう一つ確実な証拠が欲しい!と思っていたところ、ついに昨年、勝龍寺城天主の存在を決定的にする新資料が紹介されました。「地域史料研究会やわた」の有志と竹中友里代氏が調査に取り組んでこられた橋本家(石清水八幡宮神人)文書です。織豊期に当主であった等安(高好)は日ごろから連歌師紹巴と親交を結び、指導をうけていましたので、その関連資料がたくさん伝わっています。その中の一つ、紹巴が採点した高好の連歌の奥に、元亀4年(1573)6月6日付の紹巴書状があり、「勝龍寺城の『御天主』で両吟連歌を興行し、今帰ったばかりだ」と認められています。これこそが天主の存在と、そこが連歌興行の重要な場所であったことを伝える内容にほかなりません。藤孝と紹巴は連歌を通した交流だけではなく、当時の政治的・軍略的な動きにも緊密に関わっていました。

  天主の姿は今の私にはみえませんが、勝龍寺城の濠を辿りつつその跡を見上げれば、戦乱の世に安らぎを求めて連歌に興じる人々の声が聞こるかのようで、実澄(実枝)と藤孝(幽斎)が柿本人麿呂像を前に対座した古今伝授のイメージが目に浮かびます。そして細川幽斎と八条宮智仁親王の深い絆にも、いっそう思いを寄せずにはいられないのです。

 

ー参考文献ー

・冨阪賢「古今伝授と細川幽斎-歌道にみる戦国のネットワーク-」『細川家の至宝 珠玉の永青文庫コレクション』 2010年

・『細川幽斎 戦塵の中の学芸』 笠間書院 2010年

・『古今伝受資料』一・二 宮内庁書陵部 2019年

・『光秀と幽斎~花開く武将文化~』 京都府立山城郷土資料館 2020年

 

奥に見える一段高い土塁が天主跡