三思一言 勝龍寺城れきし余話⑸ 2020.07.19

細川幽斎と八条宮智仁親王

◆幽斎と智仁親王-出会い-

 細川幽斎は、秀吉との安定した関係のなか、天正14年(1588)に在京料として西岡に3000石を与えられ、丹後-勝龍寺城-京・吉田を行き来していました。天正15年には九州征伐に出陣、天正20年には肥前那護屋への陣中見舞に赴くなど、相変わらずの戦の世です。このような中で文禄5年(1506)、当時19歳の八条宮智仁親王へ「伊勢物語」の講釈を行い、以後連歌会を共にするようになります。智仁親王は、しばしば和歌の添削を幽斎に乞い、師弟の関係を深めていきました。

 慶長5年(1600)2月16日、幽斎は智仁親王への古今伝授にあたり、家康の了解を得ます(桂宮家文書「徳川家康宛前田玄以書状」)。そして3月19日、智仁親王から古今伝授の誓状が提出され、春歌・夏歌・秋歌・・・と講釈が進められました(桂宮文書「幽斎講釈日数」)。

◆中断された古今伝授

   しかし5月29日、政情不穏のなか幽斎は急ぎ丹後に帰国し、古今伝授は中断します。そして7月22日からは田辺城の籠城戦となり、7月27日、智仁親王は家従を遣わして開城を進めます。死を決意した幽斎は、29日に古今相伝の箱と伝授の証明状に、「いにしえも今もかわらぬ世の中に こころのたねをのこすことの葉」の短冊を添えて古今伝授の終了とみなし、禁裏へ進上する古典籍を智仁親王に託したのでした。戦況の膠着状態が続くなか、後陽成天皇は度々の勅命を出し、これに応じて幽斎が田辺城を開城したのは9月12日のことです。この休戦調停には、中院通勝・烏丸光宣ら幽斎の弟子たちが当たりましたが、その成就には智仁親王の尽力があったといわれています。関ヶ原の合戦の決着がついたのは3日後の9月15日で、間一髪の事件でした。

◆その後の親しき日々

 智仁親王は翌慶長6年正月、生還した幽斎に試筆歌を送り、師弟の関係をいっそう深めていきます。満足な講釈や儀式を経ないまま伝授の修了とみなされた智仁親王は、さぞ不本意だったのでしょう。特に慶長7年には、幽斎を八条宮邸に招いて問答を交わしつつ、「聞書」(聴講ノート)を繰り返し推敲し、勝龍寺城の「古今伝授座敷模様」や古典籍の書写を精力的に行います。そしてついに11月2日、「古今和歌集聞書」の清書本に幽斎の奥書と花押を得たのです。

 幽斎直伝による正真正銘の伝授者となった智仁親王は、寛永2年(1625)12月、後水尾天皇への古今伝授を行います。そして後水尾天皇から代々の天皇へと受け継がれ、この流れは後に「御所伝授」とよばれるようになりました。

◆「八条殿茶屋」と「長岡大明神」

  八条宮屋敷は、秀吉代、家康代の禁裏造営に伴って度々普請が行われます。慶長7年、幽斎と智仁親王がさかんに交流した頃、八条宮邸は御所の北、今出川御門の前に定着しました。

 八条宮家第2代智忠親王は、父親譲りの雅趣に富んだ人物です。智忠親王は婚礼準備の普請に伴い、智仁親王が幽斎から古今伝授をうけた座敷を、領地の開田村天神山に移します。火災の難を憂慮したからで、そこは眼下に勝龍寺城跡があり、京都を見晴らす絶好の場所でした。

 それ以来、細川幽斎は古今相伝の宮家にとって「格別」の存在として崇められました。さらに安政6年8月20日、幽斎250回忌にあたり、宮家は長岡天満宮に「長岡大明神(祭神細川幽斎)」を勧請します。

 明治維新となり宮家の領地は没収され、明治14年には澄子内親王の死によって桂宮家は廃絶しました。しかし「長岡大明神」は、今もなお旧桂宮邸跡(京都御苑内)で祀られています。そして桂宮家の古今伝受資料は宮内庁書陵部に引き継がれて、保存・公開が取り組まれています。その中には幽斎→智仁親王の伝授資料とともに、三条西実枝→長岡藤孝の伝授資料も一括されてあるのです。幽斎と智仁親王の縁が、並々ならぬ深いものであったと、重ねて特記しておきましょう。

 

-参考文献-

・烏丸光広「耳底記」『日本歌学大系』第6巻 風間書房 1956年

・京都大学国語国文学資料叢書『古今切紙集 宮内庁書陵部蔵』  1983年

・『細川幽斎 戦塵のなかの文芸』 笠間書院 2010年

・図書尞叢刊『智仁親王詠草類』一~三 宮内庁書陵部 1999~2001年

・図書尞叢刊『古今伝受資料』一・ニ 宮内庁書陵部 2017・2019年

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年表で辿る師弟の深い縁
幽斎・智仁親王【古今伝授年表】.pdf
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旧桂宮家伝来の古今伝受資料は、宮内庁書陵部のホームページで公開されています。これらは了解をいただいて掲載した画像です。

「長岡大明神」跡の石柱 長岡天満宮錦景苑

「古今伝授の間」跡の石碑 長岡天満宮