三思一言 勝龍寺城れきし余話⑹ 2020.08.30

『兼見卿記』を読む -吉田兼見と細川幽斎-

 ◆新訂増補『兼見卿記』

 『兼見卿記』は、安土桃山時代の吉田社祠官・吉田兼見の日記です。兼見は天文4年(1535)生まれで、元亀元年(1570)に父兼右(元亀4年没)より家督を継ぎ、初め「兼和」と称していましたが、天正14年(1586)に後陽成天皇の諱(和仁)を避け「兼見」に改名します。

 兼見の日記は、吉田家の当主となった元亀元年から始まります。近年、新訂増補『兼見卿記』(第1~第7)が完結し、亡くなる直前の慶長15年8月までの記事を、精確な活字と詳しい注記で読めるようになりました。第1~第4(元亀元~文禄元)は東京大学史料編纂所作成謄本、第5・第6(文禄2~慶長7)は新発見の天理大学附属天理図書館所蔵自筆本、第7(慶長14~15)は豊国神社所蔵自筆本を底本としています。兼見の目で、当時の政治や社会の動きが克明に記されおり、読み進めるうちに、いつのまにかその時代に迷い込んでいるような錯覚に陥いります。正親町天皇・後陽成天皇と禁裏・院に勤番の公家たち、信長・光秀・秀吉・家康ら時の権力者とそれをとりまく武士など、お馴染みの人物が次々と登場し、足利義昭追放、本能寺の変、山崎の合戦、秀吉の関白就任、聚楽第建設、豊臣秀次失脚の顛末など、後々語り継がれる有名事件のドキュメントが兼見の筆で記述されているのです(天正2・16・17年、慶長3~慶長6、慶長9~12年は欠本)。天正10年の本能寺の変から山崎の合戦までの記事に至っては、正本と別本の2冊があるとういう念の入れようで、まさに歴史の綾に翻弄されるかのような心地がします。

◆家族ぐるみの親しき日々

 ここでは、兼見と細川藤孝の関係に焦点を絞ってみましょう。兼見の父(清原宣賢の子で吉田家に養子)と藤孝の母は兄・妹で、つまり二人はいとこです。藤孝は天文3年生まれの一つ上と年も近く、生涯をとおして公私共々親密に交わりました。

 藤孝が勝龍寺城にあった時は、兼見はたびたび勝龍寺城を訪れ、また藤孝が坂本城や安土城へ赴くさいには吉田に立ち寄ります。吉田は近江に向かう山中越えの中継点にありました。

 藤孝が丹後にあった時も、上洛のさいには必ず吉田に立ち寄り、兼見もまた幽斎の旅宿を訪ねます。二人は禁裏や秀吉への祗候のため共に行動することもあり、丹後ー京ー伏見屋敷を往来し、老いてもなお戦地に赴く幽斎の行動が、この日記から逐一わかります。

 関ヶ原の合戦後、細川家が豊前国へ領知替えになると、幽斎は京都に滞在することが多くなり、三条車屋町に屋敷をおき(『舜旧記』慶長7年10月27日条)、吉田にも庵を結んでいました(天正19年9月27日条)。慶長7年には、幽斎の妻・麝香が三条車屋町の松井友閑屋敷を買得し(慶長7年9月2日・7日条)ており、京都三条が終の棲家となりました。

 麝香は若狭熊川城主沼田光兼の娘で、若かりしころより幽斎と戦国の世を共にした烈女です。兄の沼田統兼(弥七郎・一之斎)は幽斎の重臣であり、兼見が勝龍寺城を訪ねたおりには、沼田屋敷でくつろぐのが常でした(天正3年12月18日条、天正7年12月27日条)。

 細川家と吉田家の家族ぐるみの仲は、幽斎と麝香の娘「伊也」が兼見の息子・兼治のもとに嫁入りしてからいっそう親しくなりました。伊也は初め一色義定に嫁ぎますが、本能寺の変後に夫を兄・忠興に謀殺されてしまいます。この婚儀はその直後のことで、居宅作事の財政的援助をはじめ、幽斎が何かと娘の行く末を気遣っているようすがわかります(天正11年3月15日・23日条、天正12年11月19日条・12月15日条)

 この例のように『兼見卿記』には、当主をはじめ家族たちの日常生活がくわしく記されていますので、兼見や幽斎の素顔が垣間見え、また二人の本音の会話を聞けるのも魅力の一つです。たとえば文禄3年、幽斎が兼見のもとを訪れ、腹違いの弟(東寺法嚴院恵祐)の死を語る中で、「幽斎は出生より細川刑部(晴広)の養子となった」という記述があります(文禄3年3月13日条)。幽斎の謎多き出自を知るうえで、信憑性の高い内容として注目しておきましょう。

◆気脈通じる学問の友

 吉田家は代々著名な学者を輩出し、蔵書も多く伝わり、兼見はその学統のなかにありました。兼見と幽斎の親密さは、親類ということだけではなく、学問を介した気脈通じる仲にあったことが随所に伺えます。たとえば天正4年10月、兼見は藤孝が三条西実枝よりうけた古今伝授のうち、『日本書紀』神代巻の不審に答えるため、勝龍寺城へ赴いています(天正4年10月27日条)。後に兼見が禁裏で後陽成天皇はじめ准后・女御らの聴聞衆を前に講談を行い(文禄5年2月5日~22日条)、「殊に家業なり、その節を無事に遂げ、当社祖神の加護なり、尤忝し、尤忝し、満足仕りおわんぬ」と自負しているように(文禄5年3月12日条)、吉田家は『日本書紀』講釈について権威ある家です。

 また『古語拾遺』(平安時代、斎部氏編集)の不審箇所を深夜まで話し合ったり(文禄3年10月26日条)、幽斎が兼見所持の『新古今集注』(東常縁注)を泊まりがけで写したりと(文禄4年4月7日条)、学問をとおした熱心なやりとりが続きます。この幽斎筆の『新古今注』は、後に兼見を通して後陽成天皇の叡覧に供されました(慶長元年12月12日・13日、慶長2年2月2日・27日条)。兼見が秀吉から『太平記』巻29の書写を命じられたものの、眼病のためそれを果たせず、幽斎に相談して右筆の長次に代わりを頼んだことなどは、2人の友情をよく物語るエピソードです(天正19年10月18日条)。

◆八条宮智仁親王と兼見&幽斎

 兼見は誠仁親王がニ条新御所へ移徒して以来、番衆として禁裏や院に祗候し、(天正7年11月21日・22日条)公家社会にも幅広い人脈がありました。誠仁親王急死により即位した後陽成天皇と母・勧修寺晴子の信任は篤く、弟の八条宮智仁親王にも親しく祗候しました。八条宮屋敷の縄打(天正18年2月19日条)、新御殿への移徒と清祓(同年12月13日・22日条)、元服(天正19年正月29日・閏正月1日条)と、日記にはその動向が詳細に記されています。

 幽斎が八条宮邸に赴き、『伊勢物語』の講釈が始められたのは文禄5年3月のことで、兼見の口利きで阿野実顕の聴聞が許されました(文禄5年3月21日条)。この講釈にさいし、幽斎は『伊勢物語闕疑抄』(祖父清原宣賢の本や師三条西実枝の講釈等をもとに集大成した注釈書)をまとめます。その奥書に「八条殿講談つかまつるへきよし、かしこき仰せこと度々うけたまはり侍るによて・・・」とありますので、幽斎が智仁親王へ祗候するようになった馴れ初めがわかります。

 幽斎はもと足利義昭の側近で、若き日から師近衛稙家をとおして公家社会とつながりがありましたので、武家でありながら三条西実枝から家伝の古今伝授を受けるという「異例」も頷けるものがあります。しかし、後陽成天皇や弟の智仁親王との接触は、兼見の存在が大きかったとみてよいでしょう。天正18年、兼見は後陽成天皇の母勧修寺晴子から「今上天皇古今御伝授之御叡心也」、つまり後陽成天皇が古今伝授をうけたいといっているが、若年なので思いとどまるよう説得を命じられます。これに対し兼見は、「(古今伝授は)神道極秘之儀也、尤の仰せに候也」と、天皇へ祗候するさいに申し入れると応答しています(天正18年9月22日条)。

 この古今伝授に対する兼見の発言をうけると、改めて勝龍寺城天主における切紙伝授の設えが想起されます。東常縁以来の古今伝授の儀式は、吉田兼俱の称える吉田神道の元で神秘化が進められ、三種の神器を飾る座の荘厳は幽斎周辺において整えられたものだと理解されています。これをふまえると、八条宮智仁親王が幽斎直伝のもとで「神道大意」(吉田神道の大意を簡単に記したもの。慶長7年4月11日写)と、「古今伝授座敷模様」(慶長7年8月14日写)を写し、古今伝授の一環として八条宮家に継承した意味をより深く考えることができるのです。

 慶長期の『兼見卿記』は欠本が多いものの、それでも慶長13年~同15年の日記が残り、兼見と幽斎の最晩年の様子がわかります。兼見は弟梵瞬(豊国社神宮寺社僧)と共に豊国社の祭祀や維持に当たりますが、しだいに身体不調となり、神事が勤められない日が多くなっていきます。慶長14年8月、智仁親王は例年のとおり兼見宅(豊国社邸内)で装束を改め、50人ばかりの御供で豊国社参を行いますが、兼見は「所労」のため同行することができませんでした(慶長14年8月16日条)。幽斎は前年に危篤の状態となり(慶長13年12月11日条)、このころも病状悪く、吉田兼従(兼見と幽斎の孫)が見舞いに訪れています(慶長14年12月19日条)。

 慶長15年8月、八条宮智仁親王の豊国社参があり、兼見は邸宅に立ち寄った親王から「太刀馬代」を拝領したことを記し、日記はここで途切れました(慶長15年8月13日条)。これが40年にわたる『兼見卿記』、最後の記事です。幽斎が息をひきとったのは、まもなくの8月20日(享年77歳)。兼見は9月2日に倒れ、後を追うように急逝しました(享年76歳)。

 

 次回も「細川幽斎の在京料ー丹後と京ー」と題し、『兼見卿記』の記事を読んでいきますので、興味のある方は御訪問下さい。

 

 ー参考文献ー

・金子拓「室町幕府最期の奉公衆三淵藤英」『東京大学史料編纂所研究紀要』第12号 2002年

・日向進「『兼見卿記』をとおしてみた天正年間における社家・公家の数寄空間」『建築史論聚』 思文閣出版 2004年

・海野圭介「細川幽斎と古今伝授」『細川幽斎 戦塵の中の学芸』 笠間書院 2010年

・新訂増補『兼見卿記』第一~第七 史料纂集古記録編 八木書店 2014~2019年

・『光秀と幽斎~花開く武将文化』 京都府立山城郷土資料館 2019年

・『長岡京市歴史資料集成1 勝龍寺城関係資料集』 長岡京市教育委員会 2020年

 


京都ー近江を結ぶ山中越え(北白川)

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