三思一言 勝龍寺城れきし余話(11) 2021.01.07

細川藤孝と明智光秀 -戦と連歌の日々-

◆信長にとっての藤孝・光秀

 元亀4年(1573)7月16日、細川藤孝と明智光秀は槇島城の足利義昭を討つべく、満々と逆巻く宇治川を渡ろうとしていました(池田本「信長記」元亀4年7月16日~18日条)。藤孝と光秀が義昭・信長を擁して入京してからわずか4年余り、二人は共に、織田信長の家臣として生きる途を決定的にしたのです。

 元亀2年から3年にかけて藤孝は勝龍寺城、光秀は坂本城を築き、それぞれ信長の畿内統一の最前線を担っていました。しかし二人への信長の対応は微妙に異なっているように思えます。以後洛中や丹波支配など、軍事的には光秀により過酷な任務を課し、それこそ分身のように意のままに扱き使います。戦局に応じ、連携して二人を動かすという信長の路線は明らかですが、藤孝に対しては一定の距離感があったように感じます。信長は藤孝の出自と教養に対し、安易に踏み込むことのできないものを感じていたのではないでしょうか。

  それはさておき、只今永青文庫で「新・明智光秀論」と題した展覧会が開催中です。永青文庫に伝わる59通の信長文書から、藤孝と光秀の関係に迫る史料が網羅され、わかりやすく紹介されています。図録を拝見すると、紀伊攻め、丹波・丹後、播磨・摂津の掌握など、信長がそれぞれから畿内情勢や戦況の報告を頻繁に提出させ、二人の連携を図るべく、周到な指示を連発していたことがよく理解できます。

◆光秀にとっての藤孝

 藤孝・光秀の親しい関係については、田端泰子先生が吉田兼見の日記から詳しく述べておられます。兼見は藤孝に対して、いとこ関係を抜いてもその才能に対する無条件の敬服がありました。これに対し光秀とは茶湯・連歌の交わりに加えて、信長配下の有力武将としての影響力で結ばれる兼見の動向に言及しておられます。

 槇島城の戦いの直後の11月12日、藤孝と光秀は里村紹巴主宰の連歌に連れ立って出座しました(「埋火にひらくあふぎや雪の窓」大阪青山歴史文学博物館蔵連歌懐紙)。光秀は藤孝や紹巴を通して「連歌」という心の糧を得、公家や門跡衆等との人脈や文化の中に身をおくことができたのです。もちろん「大好き」という個人的な才能や趣向が前提となりますが、連歌・茶湯といった教養(おもてなし・教養)が、戦国武将としての地位や能力を高めるうえで大切であったことは、いうまでもありません。

 お互い城主となった天正2年(1574)閏11月2日、坂本城では琵琶湖に舟を浮かべた連歌会。発句は藤孝の「大舟の雪にしつけき堀江哉」、脇句は亭主光秀の「氷る汀や遠きさゝ波」、そして紹巴が「村千鳥啼行月のかけ更て」と続きます(「明智殿興行船中之御参会」大阪天満宮蔵)。

 翌年からは熾烈を極める丹波攻め、そこからの播磨・摂津攻め、大坂本願寺攻め、紀州攻めと戦線は西へ、南へ。天正5年4月8日、光秀が新たに築いた亀山城の連歌初興行に出座した藤孝は、「亀の尾のみとりも山のしけりかな」と詠みました。天正6年5月4日、播磨へ出陣した光秀は、書写山円教寺を経て、生田・須磨から明石・人丸塚と和歌の名所を思いがけず見物し、思い立って紹巴に書状を認めました(竹内文平氏所蔵文書)。この中に「藤孝、御参会候哉、御床敷候(藤孝と会っていますか?、なつかしい)」との一文あり、ここを読むと、二人にとって戦と歌は同じくらいの価値あるものであったのだと思えてきます。翌月の6月3日には、刀田山鶴林寺に陣取った藤孝が、高砂の松や明石潟を見て歌を詠む(綿考輯録)といった具合です。

 もう一つ、二人に関わる有名な連歌会を紹介しましょう。天正9年4月、光秀・紹巴・津田宗及らは、丹後に遊びます。12日の朝食は宮津で忠興の振る舞いがあり、その後の巳刻、一行は飾り船にて九世戸(智恩寺)見物へ。にわかの夕立の後の発句は光秀「うふるてふ松は千年のさなえ哉」、脇句は亭主藤孝「夏山うつす水の見なかミ」、そして紹巴が「夕立のあとさりけなき月見へて」と続きました(宗及茶会日記)。

 

ー参考文献ー

・高柳光寿『明智光秀』 吉川弘文館人物叢書 1958年

・土田将雄『続細川幽斎の研究』 笠間書院 1994年

・藤田達生・福島克彦『明智光秀 史料で読む戦国史』 八木書店 2015年

・田端泰子「本能寺の変直後までの吉田兼和の生き方と交友関係ー特に明智光秀、細川藤孝とのつながりを軸にー」『京都橘大学研究紀要』42 2016年

・金子拓『戦国おもてなし時代』 淡交社 2017年

・「新・光秀論 細川と明智 信長を支えた武将たち」『季刊永青文庫』№110 2020年

 

光秀の坂本城跡

光秀の亀山城

智恩寺