三思一言 勝龍寺城れきし余話(17) 2021.11.22

勝龍寺梵鐘秘話-応仁文明の乱に鳴り響く‐

◆山城国乙訓郡神足郷勝龍寺

 「関西見延」とよばれる由緒深い真如寺(大阪府豊能郡能勢町)に、旧勝龍寺の梵鐘が架かっています。大坂落城の時に能勢頼次が淀川源八堤で取得し、地元の鎮守・野間神社に奉納したものと伝えられ、明治の廃仏稀釈によりこの寺に移されました。

 大きさは総高122㎝・口径71㎝。宝筐院陀羅尼の真言が刻まれおり、「山城国乙訓郡神足郷/勝龍寺 洪鐘鋳事/元應元年己未五月十日/大工清原得光/小工右衛門尉山河助綱」の銘文があります。「神足(こうたり)」は古代の郷名ではありませんが、平安時代には貴族の邸宅や神社の名として史料に散見される地名で、南北朝期からはこの地字を名乗る神足氏が有力武士として活躍するようになります。大山崎宝積寺の梵鐘(永正16年銘)を鋳造した大工に神足掃部清原春広がいますので、「清原得光」は神足氏一族の先祖と考えてよいでしょう。

 神足と勝龍寺の位置関係をみる恰好の史料が、永正2年(1505)の「勝龍寺近隣指図」(九条家文書)です。その描写を、地形分類図と合わせて図示してみました。西の西国街道と東の久我縄手を結ぶ「カイ道」の北、少し高い段丘のところが神足。そして「カイ道」の南、舌状の段丘上に勝龍寺の寺域があり、「カイ道」の西と東の2か所に木戸のような入口がありました。しかしこの指図は、騒動の現場となった「神足城」のようすを知らせるために素描されたもので、勝龍寺と一体となっていた総構えは示されていますが、寺域のようすついては省略されています(この指図については、次回にくわしく紹介)。

◆16世紀初めの頃の勝龍寺

 史料による勝龍寺の初見は、勝龍寺が乙訓郡内の土地3筆を買得した正嘉2年(1258)の証文です。勝龍寺に今も伝わる鎌倉時代の観音像や二天立像(持国天・多門天)の優品からもその寺勢は明らかで、これらをふまえると、元応元年(1319)銘の梵鐘の存在をさらに実感できます。

 室町時代の勝龍寺については、東寺百合文書に興味深い史料があります。足利義政の八幡社参の警固役として守護が人夫を徴発し、勝龍寺に集めるという内容で(上久世・下久世荘に対する配符①③④⑥)、それに対して免除を求めるかわりに、使いの僧が勝龍寺まで礼銭を持参しているのです(供僧引付=会議録②⑤)。勝龍寺の一部には守護(畠山義就)方の侍が居り、応仁の乱が勃発すると畠山義就方(西軍)の拠点となっていました。

  「カイ道」南の段丘上に立地する寺域に、旧集落の古い道路を示すと、朧気ながら勝龍寺の構造が見えてきます。大永2年(1522)年の小塩庄帳には、名請人として「寺家」や「中坊」・「東坊」・「行光坊」の名があり、他の史料では「瑠璃光坊」の存在もわかります。また聖観音像の台座には「蓮池坊」・「専勝坊」の墨書が確認できますので、おそらく中央の「寺家(本坊)」を中心として、周りにいくつかの子坊・坊舎が取り囲んでいたのでしょう。そして本坊の北、少し低い所に寺院経営を行う寺務(雑掌らの詰所)があり、ここに守護所がおかれて、人夫たちが集められたのだと思われます。

 勝龍寺に畠山義就方の軍勢が占拠していた文明2年(1470)4月、奉行「遊佐越中(盛貞)方」より「勝龍寺の鐘が鳴ったら下鳥羽で鐘を撞くので、それを合図に東寺でも突くように」という「折紙」(書状)が届きました。東寺では27日の評定でさっそくこのことが披露され、「承知するけれども、下鳥羽の鐘は聞こえないので吉祥院でも鐘を突くように」と、雑掌を通して返事をしています(引付⑦)。激しい攻防の真最中に、西軍方の合図として鳴り響いた鐘の音を想像するとき、いつも思い浮かぶのが、流転を経て遠く摂津真如寺に伝わる勝龍寺梵鐘の存在です。

-参考文献-

・『長岡京市史』資料編二・建築美術編・本文編一  ・『勝龍寺関係資料集』 長岡京市教育委員会 2020年