三思一言 勝龍寺城れきし余話⒅ 2022.01.27

中世の縮図-山城国乙訓郡小塩庄‐

◆小塩山の麓に広がる、乙訓最大の荘園

 荘園制は、中世の政治・経済・社会・文化の骨格をなすものです。摂政・関白として権勢を振るった九条道家は、その晩年に所領を一族に配分し、関係寺院の寺領・供僧を定めた処分状を残しました。このなかで、山城国乙訓郡小塩庄(おしおのしょう)は、道家が「終老之地」として東山毘沙門谷に創建した光明峯寺(こうみょうぶじ)の根本所領とされたのです。光明峯寺は、金堂・多宝塔・御影堂・伝法堂・禅堂・丈六堂・奥院・十三重塔・草堂などを擁する大伽藍で、8口の供僧がおかれました。

 庄名の由来となった小塩山は、標高639メートルの山頂を含む一帯の連峰で、乙訓に散在する広大な荘域を象徴したのでしょう。永正2年(1505)10月、年貢未進を打開すべく小塩に下向した領主九条政基は、滞在した神足城で「ふるき跡をしほ(小塩)の山の夜嵐に、かしら(頭)の霜をかさねてそぬる(寝る)」と詠んでいます(「九条政基下向引付」永正2年10月18日条)。大永2年(1522)につくられた「小塩庄帳」を図や表で示すと、乙訓西南部に散在する荘地のようすがよくわかり、これらの村々を歩くと、どこからでも小塩山を遠望することができます(東の山頂が尖がった山は愛宕山)。

 文明15年(1483)、一条家の家司で公家の松殿忠顕は「小塩庄は田数280町余、年貢額は900石、これは大体一反当たり4斗代にあたる。しかし近年は450石・・・」と、興福寺大乗院の尋尊に語っています(大乗院寺社雑事記)。応仁の乱による衰微は免れないとしても、上久世庄60町、下久庄80町、久我上庄104町、久我下庄50町という近隣の代表的な荘園と比べると、小塩庄の広大さが理解できます。

◆小塩庄最後の代官・長岡藤孝

 鎌倉時代から南北朝時代にかけて、光明峯寺領小塩庄は九条道家の遺言にしたがい、一条家と九条家が交互に管轄しましたが、南北朝期に随心院が寺務(別当、一条家の子弟が入寺)として関与することになり、幕府や守護、それに絡んだ代官などとの複雑な荘支配が展開していきます。さらに応仁の乱で光明峯寺が焼失し、戦国の動乱が激しくなると共に、小塩庄の権益をめぐる熾烈な争いが絶えることなく続きます。『長岡京市史』では「九条家文書」と新出の「随心院文書」、それに加えて「大乗院寺社雑事記」・「東寺文書」・「尊経閣文庫文書」など厖大な史料を踏まえ、田中倫子先生が系統的に、そして豊かにその全貌を叙述されています。

 広大な小塩庄支配の中心は神足・古市・勝竜寺の3ヵ郷で、古市には政所が置かれていました。勝龍寺城城主長岡藤孝は小塩庄最後の代官となり、やがて太閤検地によって荘園は解体され、近世の村へと生まれ変わります。このシリーズでは神足氏と神足城、勝龍寺と勝龍寺城を中心に、これまでの研究成果に学びながら、追々と私見を述べていくことにしましょう(PDFで略年表を付しました)。

 

-参考文献-

・『長岡京市史』資料編二 ・『長岡京市史』本文編一

 

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