三思一言 勝龍寺城れきし余話⒆ 2022.03.10

神足氏と神足城総構 -小塩庄下司・神足友春-

 ◆乙訓惣国と神足友春

 神足(こうたり)氏は南北朝期からその活動が知られる、西岡を代表する国衆(有力な在地土豪・地侍)の一人です。とりわけ応仁の乱後、16世紀の初頭にかけて活躍する神足友春は、東寺百合文書・九条家文書・随心院文書など、京都近郊の戦国騒乱に関わる数多くの史料に登場します。

 初見は応仁2年(1468)で、神足孫左衛門尉(友春)は高橋勘解由左衛門尉・寒川越中入道・石原弾正左衛門との連名で、細川勝元の奉行人から山城国上野庄などへの半済催促の停止を命じられています(①東寺百合文書ヲ98)。応仁の乱が終結した後の長享元年(1487)、西岡では細川方へ出す礼銭に苦慮しており、国衆たちはそれぞれの領主からの工面に奔走しますが難航。東寺領上久世庄の荘官寒川家光に対し、神足孫左衛門尉友春・物集女四郎右衛門尉光重らは連名で当時からの出銭を迫ります(②東寺百合文書を312)。ここで注目されるのは、このたびの事態を「惣国の大儀」と表現していることです。

 それから10年余り後の明応7年(1498)2月、山城下五郡の守護代として入部した香西元長(細川政元被官)は、乙訓の寺社本所領に対して五分之一済をかけてきました。これに対して乙訓惣国の面々は拒否し、向日宮で寄合を重ねて「国持ち」にしようと動きます。しかし紆余曲折の中で、結局五分之一済免除の礼銭を調達するという方針となり、野田泰忠・物集女光重・神足友春が久世上下庄沙汰人に領主東寺からの礼銭を用意するよう催促(③東寺百合文書ソ263)。ここで神足友春は備前守を名乗っており、この史料からも惣国の年寄衆としてリーダー的な存在であったことがわかります。

 明応4年から起こった牛ヶ瀬村桂地蔵用水の相論にさいしては、物集女氏らと共に薬師寺元一(細川政元被官)から合力を要請されており(④東寺百合文書ヲ171)、友春は細川氏被官であり、乙訓惣国の主導者であり、そして小塩庄の中心神足・古市・勝竜寺3ヵ郷の下司であるという複雑な立場にあったのです。

 九条家文書や随心院文書の厖大な史料は、戦国に生きる神足友春の熾烈な状況を如実に示しています。ここではそれを十分に語り尽くすことはできませんが、小塩庄をめぐって神足備前守に宛てられた赤沢宗益(朝経・細川政元被官)、安富元家(細川政元被官)の書状案(九条尚経筆「後慈眼院殿雑筆」)を一例として掲げ、友春に対する細川政元被官からの複雑な動きを紹介しておきましょう。

◆薬師寺与一(元一)の乱と神足友春の最期

 細川政元の後継者をめぐる最初の騒乱が起こったのは、永正元年(1504)9月4日のことです。この日摂津国守護代であった薬師寺与一(元一)が、淀の藤岡城に拠って政元に対して反乱を起こし、神足・中小路・物集女ら西岡地域の国人・地侍たちの多くがこれに呼応して、神足城は反乱軍の拠点となりました。与一の養父薬師寺元長は、明応6年(1497)に九条家から小塩庄の代官に任じられており、与一はその後継者です。

 しかし9月19日に淀の藤岡城が落城し、与一(元一)は囚人となって京都へ運ばれ、翌20日に自害して果てました。九条家文書にはこの薬師寺与一の反乱について神足友春が記した稀有な書状が伝わっています。

 日付けは9月24日、宛名は矢野(秦左衛門)治清(九条家が任じた小塩庄代官)。子の孫三郎(春治)は存知していたかもしれないが、自分はこの反乱については関与していないという文言から始まります。四宮長能(与一側の摂津国人)がやってきて、友春が構える神足在所の城を「いろいろ申しのけ(除け)」、孫三郎は親類一族被官を連れて淀へ逃れたが、友春は小者一人と残ったこと、それから摂津からの敵はさらに増え、友春も淀の地下へ、藤岡城へと逃れ、今は敵方香西又六(元能)の東所(陣所か)にいることが綴られています。捕虜となって拘束され、生きるか死ぬかの瀬戸際にあるようすで、芝殿(堯快・随心院から任じられた小塩庄代官)と相談して御家門様(九条尚経)からの執り成しをうけられるよう、窮状を訴えて頼み込んでいます。自分たちは「小塩庄の下司」なのだからと、必死の嘆願です。

 この書状は九条家に届けられましたが、友春の軌跡は途絶えます。直後の関係史料(随心院文書)に「故備前守」とありますので、友春は殺されたのか、または切腹して果てたのでしょう。これが応仁文明の乱を生き抜き、乙訓惣国のリーダーとして活躍した神足友春の最期でした。

◆小塩庄神足氏拘分の行方と「神足城総構指図」

 小塩庄は乙訓全域にわたる広域な荘園ですが、その中心は「神足拘泥分」とよばれた神足・古市・勝竜寺の3ヵ郷にありました。細川家の内紛から起こった薬師寺与一の乱の後、小塩庄に割り込んできたのが与一のライバル・香西元能(元長の弟)です。すぐさま九条家と随心院の小塩庄回復への新たな展開が始まります。

 永正2年(1505)10月13日、九条家当主尚経の父・政基が、その年の年貢収納のため直々に小塩庄へ乗り込んできました。政基は家領和泉国日根野にも下向して現地に滞在した経験があります。「政基公旅引付」とよばれる日根野滞在記は余りに有名な史料ですが、彼は小塩庄での7日間の日記も残しています。

 下向の翌日、政基に同行した九条家の奉行人信濃小路長盛は、代官芝堯快に宛て入部の緊迫したようすを知らせる書状を認めました。その書状の裏には、なんと政基が入った神足城と総構えの見取り図を添えてます。これこそが神足友春の城・神足城の全体図なのです。

 この図は『日本荘園絵図集成』下に「勝龍寺近隣指図」のタイトルで収載され、戦国期の西岡国人の城、あるいは勝龍寺城の原型として広く知られています。しかしよく読めば、この図の主題は「神足城」であることはまちがいなく、私は「神足城総構指図」とよぶべきだと思っています。今回は長くなりますので、詳細は稿を改めるとして、ここでは現地比定図を掲載しておきましょう。

 次回「⒆附録 早わかり乙訓郡条里坪付図」、次々回「九条政基下向引付を読む」の予定ですので、興味のある方は引き続きご訪問ください。

-参考文献-

・宮内庁書陵部 『図書尞叢刊 九条家文書』全7巻 明治書院 1977年

・西岡虎之介編 『日本荘園絵図集成』下 1977年

・熱田公 「山城国小塩荘について」 『永島福太郎先生退職記念 日本歴史の構造と展開』 1983年

・中村研 「永正年間の西岡小塩庄」『文化学年報』33号 1984年

・宮内庁書陵部 『図書尞叢刊 九条家歴世記録』三 明治書院 1993年

・高橋昌明 「足利尊氏と西岡の武士」『長岡京市史』本文編一 1996年

・田中倫子 「戦国期の小塩庄」『長岡京市史』本文編一 1996年

・玉城玲子 「乙訓惣国」『長岡京市史』本文編一 1996年

・松永和浩 「西岡国人神足氏と室町幕府」 『史敏』12号 2014年

・馬部隆弘 「神足家旧蔵文書の復元的考察」 『史敏』12号 2014年

 

現在の勝龍寺城外郭土塁跡 奥の木立が神足神社