三思一言◆ 2018年1月17日

乙訓寺の再興と護持院隆光

◆徳川綱吉・桂昌院の護持僧

 2017秋、向日市文化資料館の特別展「乙訓郡誌が編纂された時代」で、葵紋の袈裟をまとった隆光の肖像画が展示されました。乙訓寺の今はこの人あってこそで、郡誌の編纂者が内容に「是非」加えたいと所望した人物です。この機会に私もぜひ!ということで、乙訓寺さんのご厚志のもと、特別展の図録から写真を転載させていただきました。

 隆光というとみなさんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。ドラマなどでは綱吉や桂昌院に取り入り、「生類憐みの令」などに加担した悪僧として登場しますが、ほんとうはどんな人物だったのでしょうか。

 隆光は正保2年(1645)、大和国添下郡二条村の生まれ。幼くして近くの唐招提寺に、次いで長谷寺に入ります。長谷寺は将軍家とゆかりの深い名刹です。隆光の出世は貞享3年(1686)に筑波山知足院の住職に任命されたことから始まりました。元禄元年(1688)、寺地を神田橋外に移し、元禄8年には護持院の称号を下されて大僧正となり、護国寺亮賢とともに元禄の寺社再興を動かす中心人物の一人として活躍します。

 しかし宝永2年(1705)に桂昌院が、宝永6年に将軍綱吉があいついで亡くなると、大僧正を解任されて大和国に退隠します。この肖像画の賛には「宝永7年」「当寺中興前僧録前大僧正隆光書」とあり、権力の座から追われた直後につくられたことがわかります。

 ちなみに唐招提寺にも、これとほぼ同じ図様の隆光の肖像画があります(賛から退隠前のものであると思われます)

◆『隆光僧正日記

 隆光の行動や立場は、『隆光僧正日記』(全20冊、東京護国寺所蔵)からくわしくわかります。たとえば綱吉や桂昌院は本庄因幡守宗資(桂昌院の弟)の屋敷へたびたび「御成」を行いますが、そのさい側近の老中や寺社奉行、昵懇の僧侶らとともに講釈や交遊に同席しています。また桂昌院が居所の三の丸から本丸に出御したさいには、綱吉や老中の講釈のため隆光も登城し、料理や能を振る舞われています(元禄8年3月30日条)。

 乙訓寺の再興についても、一連の動きがつぶさに記されています。元禄6年(1693)、隆光は京都の金地院文殊院屋敷と交換して乙訓寺の地を入手し、綱吉の側用人柳沢保明(吉保)へ願書を提出しました。乙訓寺は室町時代に南禅寺末寺となり、以後300年余り寺号も「法皇寺」となっていました。隆光は空海ゆかりの真言宗の名刹が禅寺になっていることを惜しみ、自分の財産と引き換えに再興に着手したのです。

 元禄7年には、幕府・桂昌院・牧野成貞等からの造営料施入をうけ、翌年に堂舎が完成し、什物一式が新調されました。また隆光は、古記録などにもとづいて「乙訓寺縁起」をまとめ、学僧としての力量を発揮しています。住持は長谷寺から元貞が入り、宝永2年(1705)には寺領100石(神足村54石、古市村46石)が与えられました。

◆乙訓寺再興の歴史的意義

 乙訓地域の歴史にとって、乙訓寺がおヘソのように重要な存在であることはいうまでもありません。ここでは隆光の乙訓寺再興の歴史的意義について、簡単に述べておきましょう。

 元禄期における寺社再興は一般的によく知られた歴史的内容ですが、資料を網羅して具体像を積み重ねる研究はそう多くはないのです。綱吉・桂昌院と側用人・護持僧、寺社奉行や町奉行、幕府御用大工や請負大工らがどのようにかかわり、造営が実現したのかを明らかにすることは、まだまだこれからの課題なのです。近年では城市智幸さんと永井規男先生が、桂昌院とその弟本庄宗資による特別な4カ寺(金蔵寺・善峯寺・今宮神社・槇ノ尾西明寺)の造営について、調査と研究に取り組んでおられます。また里見徳太郎さんが棟札や地元の古文書から、向日神社の元禄再興のようすを紹介されました。

 乙訓寺には、建築・美術・古文書・考古など各分野の学術研究のもと、元禄の寺社造営にかかわる資料一式がそっくり伝わり、大切に保存され、そして『長岡京市史』で公開されています。また『隆光僧正日記』のほか幕府御用大工中井家の普請文書(京都府立京都学・歴彩館所蔵)、京大工木子家文書(東京都立図書館所蔵)に普請文書がそろっています。隆光たっての願いで再興された乙訓寺は、一世を風靡した元禄の寺社再興を考える重要な事例であると確信していますし、金蔵寺や善峯寺の造営と対比することにより、元禄の寺社再興のさまざまな実態を正確につかむことができます。なにより嬉しいのはいずれも京都・乙訓地域の身近にあって、そのような大きな歴史のうねりを目の当たりに感じられることです。

 近年、隆光と両翼を担った亮賢の『護国寺文書』、綱吉の側用人柳沢吉保の『楽只堂年録』の刊行が進められています(史料纂集)。綱吉・桂昌院の動きや元禄という時代を深く考えていくなかで、隆光を歴史的に理解し、真の人物像を描くことができるようになるでしょう。

 

-主要参考文献-

・永島福太郎・林亮勝校訂 史料纂集『隆光僧正日記』第1~第5 続群書類聚完成会

・『長岡京市史』資料編一(考古) 資料編二(乙訓寺文書) 建築美術編 本文編一・二

・城市智幸・永井規男「金蔵寺・善峯寺の双子堂の同時造営について-桂昌院とその建築 その1-」平成27年度日本建築学会

 近畿支部研究発表

・城市智幸・永井規男「今宮神社の元禄造営について-桂昌院とその建築 その2」平成28年度日本建築学会近畿支部研究発表

・向日市文化資料館特別展図録『乙訓郡誌が編纂された時代』2017年記念講演】2017年12月10日「桂昌院・徳川綱吉による元禄の寺社再興と金蔵寺・善峯寺」永井規男・百瀬ちどり  「元禄の寺社再興と向日神社とのかかわり」里見徳太郎

『拾遺都名所図会』 天明7年(1787) 百瀬ちどり所蔵本(ご自由にお使いください)

  この絵図のとおり、現在も元禄再興時の様子が良く残っています。本堂、八幡社、鐘楼、表門(四脚門)、裏門(高麗門)をお見逃しなく。『長岡京市史』建築美術編に、永井規男先生のわかりやすい建物の解説があり、建築入門の良い教科書です。

 永井先生は本堂について「素木造で、組物には舟肘木を用いるだけの簡素な構成になり、装飾的な要素が少ない。むしろ不愛想ともいえる外観をもつ建物である。しかしきっちりと堅実につくられている。文献史料から知られるかぎり解体修理はなく、数次の屋根葺き替えに伴う修理をへているだけなのに、緩みも狂いもほとんどない。大工たちの技量は称賛に価する」と評価されています。隆光のつくった立派な棟札も、全文が翻刻されています。

 今日は1月17日。

 乙訓寺本堂も阪神淡路大震災で大きな被害がありましたが、すぐに修復され、300年余りの時を今に伝えています。

本堂裏の墓所

歴代住職の墓がならんでいます。後方の小学校のところは、すべて乙訓寺の寺地でした。

 

鐘楼と本堂

 300年前のかたちと部材をみることができます。

 

隆光の墓

「当寺中興大僧正隆光」と没年の「享保9年6月」の銘があります。

 

 

 

八幡社

真言宗にとって八幡社は大切な建物です。

 


鐘楼の屋根瓦

三つ葉柏は側用人牧野成貞。公儀普請の枠外で造営されたので、他の建物とは異なる特徴をもち、永井先生は「奇構」と表現されています。

 

本堂の露盤と鬼瓦

葵紋、元禄8年銘

鐘楼の板蟇股

ここにも三つ葉柏。梵鐘は元禄9年、隆光銘文のものがありましたが、供出のため滅失。現在の梵鐘はそれを復元したものです。

 

表門の鬼瓦

葵紋、元禄8年銘



唐招提寺戒壇院

唐招提寺は隆光が修行したところ。乙訓寺とおなじように肖像画や墓があります。

唐招提寺戒壇院表門

葵紋と繋ぎ九つ目紋(桂昌院の実家、本庄氏の家紋)。鬼瓦にもこの二つの紋があります。