三思一言◆ 2019年08月10日

郡名寺院・乙訓寺の発掘

◆苦悩の乙訓寺発掘

 「オトクニ」は、山城国八郡の一つ、京都盆地の西南に位置する郡名です。古くは「弟国」と書き、奈良時代に「乙訓」と表記されるようになりました。初見史料は、長岡京造営責任者である藤原種継暗殺の疑いをかけられた早良親王が、乙訓寺に幽閉されたという延暦4年(785)記事です(日本紀略)。また弘仁2年(811)からは空海が別当として止住し、最澄と交わした手紙(風信帖)、嵯峨天皇に橘を献上した詩(性霊集)でも有名ですね。

 推古天皇の創建という寺伝があり、寺の周辺から古代の瓦がたくさん採集されることで名高く、乙訓郡の中心的な古代の伽藍が眠っているにちがいないと、早くから注目されていました。

 昭和41年(1966)、児童数の増加に対応するため、長岡町では乙訓寺の北の竹藪2万平方メートルを買収して、町立第3小学校を建設することになりました。遺跡の重要性はいうまでもなく、乙訓の文化遺産を守る会のメンバーたちが、整地前に事前調査を行うように長岡町に申し入れ、4月から期間20日ということで、発掘調査が始まります。

 調査主体は京都府教育委員会となり、京都大学建築学教室や京都府教育委員会の技師、そして乙訓の文化遺産を守る会の会員らが総力をあげてあたりました。調査を進めれば進めるほど、白鳳時代から平安時代にかけての建物跡(礎石・掘立柱)や溝が次々とみつかり、中山修一先生は、その時の切迫した現場のようすを「乙訓文化」に刻々と記しています。講堂跡や僧房など、学問上きわめて高い価値をもつ遺構の存在が次々とわかり、当初の予定をはるかに超えた8月まで、ブルドーザーに追い立てられながら発掘を粘り強く続けたのです。

 上の写真は、ネクタイ姿でやぐらを担ぐ中山先生の写真です。当時先生は、長岡京の発掘に専念するため、京都市教育委員会指導主事を辞して西京商業高校定時制教諭となり、昼は発掘、夜は教師という生活を送っていました。学校へ行く前に、寸暇を惜しんで乙訓寺の発掘にあたる先生の熱気が伝わってきます。

◆古代の乙訓寺と周辺地割

 この時の調査では講堂跡と瓦窯が、長岡町や周辺住民の尽力で保存されましたが、その他の一連の遺構は工事によって壊されてしまいました。その苦悩の発掘から50年余り、長岡京跡の調査の進展とともに、乙訓寺とその周辺においても、精緻な発掘が積み重ねられてきました。近年では、乙訓寺境内の学術調査も取り組まれており、あらためて乙訓寺の伽藍を研究しようとする気運が高まっています。

 しかしこの間、乙訓寺の周りはすっかり宅地で埋め尽くされ、現代の都市計画道路が縦横に走り、古代の乙訓寺をイメージすることがむずかしくなりました。

 そこで、乙訓寺周辺の古い地図に、条里地割と条坊地割を示した図をつくりましたので、参考として紹介しておきましょう。乙訓寺周辺はこの2種類の古代の地割が混在し、とても解釈が難しく、現在のところ定説はありません。しかし、江戸時代再建のものとはいえ、南門と東門の位置が、これら古代の計画地割と密接な関係にあることは一目瞭然で、何かしら意味がありそうです。さらに航空写真でみると、その複雑さが一層わかり、乙訓寺の北限(江戸時代)を画する谷間など、旧地形も明瞭にみることができます。

 古代の寺院と条里計画線の関係を示す代表的な史料としては、「額田寺伽藍並条里図」(国宝・国立歴史民俗博物館蔵)が有名です。額田寺は、大和国平群郡額田郷(奈良県大和郡山市)を本拠としていた額田部氏の氏寺で、麻布を継ぎ合わせて条里を示し、額田寺の堂塔・諸門・雑舎などを詳細に描く古代の荘園絵図です。図の全面には「大和國印」が押され、記載内容から天平宝字年間(757-765)頃の作成とされており、地方豪族という建立者の地位や造営の年代、立地や周辺地割との関係などが乙訓寺と似ています。郡名寺院である乙訓寺の性格を考えれば、それは当然のことで、額田寺も幾多の歴史を経て、今も「額安寺」の名でその法灯が受け継がれています。

 乙訓寺とその周辺の厖大な発掘成果は、精緻な分析のもとに再検討され、これからも考古学による伽藍復元や年代比定が取り組まれていくことでしょう。私は、古い地図や航空写真、そして古代に描かれた絵図などを見ながら、それを楽しみにしています。

 

 -参考文献-

・「乙訓文化」1号 1966.05 「乙訓文化」第2号 1966.06 「乙訓文化」第3号 1966.07

・『長岡京発掘』NHKブックス74 1968年

・吉本堯俊「乙訓寺発掘調査概要」『埋蔵文化財発掘調査概報』 京都府教育委員会 1967年

・中尾秀正「乙訓寺」『長岡京市史』資料編一 1991年

・高橋美久二「古代寺院の建立」『長岡京市史』本文編一 1996年

・百瀬ちどり「乙訓郡の条里」『長岡京市史』本文編一 1996年

・『国立歴史民俗博物館研究報告』第88集 2001年

・「乙訓寺第25次調査概要ー長岡京跡右京1173次(7ANIHR-10地区)調査-」『長岡京市文化財調査報告書』 長岡京市教育委員会 2019年3月

 

『長岡京発掘』NHKブックス74より

乙訓寺展示室写真より

乙訓寺展示室写真より



「乙訓文化」1号 乙訓の文化遺産を守る会 1966年5月8日


「乙訓文化」2号 乙訓の文化遺産を守る会 1966年6月6日


「乙訓文化」3号 乙訓の文化遺産を守る会 1966年7月11日

乙訓寺の寺域と周辺地割 クリックして拡大

昭和34年撮影空中写真(長岡京市教育委員会蔵) クリックして拡大


額田寺伽藍並条里図(国宝)の復元複製より<部分>

国立歴史民俗博物館 歴博ギャラリー

 

国立歴史民俗博物館と東京大学史料編纂所によって復元された画像<全体>をみることができます。