三思一言◆ 2021年11月05

粟生光明寺のもみじ参道

◆昭和初めの「光明寺山内之図」

 今年は、昭和46年(1671)に長岡町観光協会が第1回の「もみじまつり」を開催して50年になります。光明寺が紅葉の名所となったのは、いつ頃のことでしょうか。昭和5年(1930)に発行された彩色の「山内之図」(向日市文化資料館蔵)は、それがわかる好資料で、境内の鳥観図に(イ)~(ロ)の記号を付し、諸堂の沿革を説明しています。

 たとえば西山専門学校(現西山短期大学)の(ヌ)には、「上段は旧校舎にして、講堂を中心として魁寮・寄宿舎・食堂・炊事場・娯楽室よりなる。又下段の新校舎は、本館及び図書館より成り、昭和3年4月の建築にかかる」とあり、江戸時代以来の檀林(僧侶の学寮)と、近代の学制のもとで新築された校舎のようすを、手にとるように見ることができます。

 そして何より目を引くのが、朱色で示されたもみじ参道。安永9年(1780)刊行の「都名所図会」を見ると、丹波街道から中門(薬医門)を経て法然上人荼毘跡に至る道、つまり現在のもみじ参道が主たる参詣道であったようすが描かれています。しかし北側は松、南側は竹林で、この頃はまだ楓の木はありません。

◆紅葉のトンネル

 もともと光明寺は、法然上人の荼毘跡を中心とした谷間(広谷)から出発したお寺です。江戸時代に北の尾根を切り開き、御廟・御影堂・阿弥陀堂の主要伽藍を拡張・整備して、現在の寺観がつくられていきました。そして、早くからこの大伽藍にふさわしい大門の造営を発願しますが、なかなか実現しません。19世紀の初め、文化年間には楼門の建築に着手し、礎石を据えるところまで進みましたが、これも頓挫。ようやく現在の総門が完成したのは、弘化2年(1845)のことでした。

 光明寺の代名詞ともいうべき長い石段の表参道(女坂)は、この総門と共に整備されたもので、それに合わせて旧参道の両側に楓が植えられました。やがてそれらは順調に生育し、半世紀余りを経た大正の頃には「紅葉のトンネル」として、さかんに観光案内に掲載されるようになったのです。

 今年も11月13日から「紅葉の特別入山」が始まります。表参道から諸堂を廻り、そして旧参道の「紅葉のトンネル」へと、光明寺の長い歴史を感じながらの諸堂めぐりが楽しみです。

「都名所図会(百瀬ちどり蔵*ご自由にお使いください)

「京都西山総本山光明寺山内之図」 昭和5年(1930) 向日市文化資料館蔵


総門前

総門

もみじ参道(左)と表参道(右)


頓挫した楼門跡(礎石のみが残る)

御影堂

阿弥陀堂