三思一言◆ 2018年5月3日

桂昌院と本庄宗資

姉と弟

 今年も見事に咲いた善峯寺の桂昌院桜。善峯寺は、桂昌院ゆかりのお寺としてたいへん有名です。境内には桂昌院廟や供養塔があり、寺宝館には、桂昌院が詠んだ和歌色紙や豪華なお道具がずらりと並んでいます。手入れが行き届いた境内や立派な展示をとおして、由緒を大切に受け継ぐご努力がうかがわれ、さすが!と、感嘆してしまいます。ところで寺宝館に、桂昌院とともにもう一人、重要な人物・本庄宗資の遺品が展示されているのをごぞんじですか。

 本庄宗(1629-1699)は、寛永6年(1629)に京都に生まれ、姉は徳川家光の室、綱吉の母桂昌院です。綱吉が将軍となるや御家人となり、桂昌院の縁者として異例の出世を遂げ、子孫は宮津藩主として幕末を迎えました。近年、本庄氏に関する家譜などの関連資料(舞鶴市糸井文庫)が広くデジタル公開され、さまざまな分野で研究が進められています。

 

本庄宗子・本庄宗資

 桂昌院は、「お玉の局」の名で幼くして御所に仕えた後(『徳川実記』)江戸へ赴き家光の側室となります。家光死後は剃髪して「桂昌院」、綱吉が将軍となり江戸城に入ってからは「三の丸様」、そして元禄15年(1702)に従一位の位を賜ってからは「一位様」とよばれました。「本庄宗子」は桂昌院が再興・造営にかかわった寺社の棟札や銅灯籠の銘文に使われる名です。ことさら実家の「本庄宗子」を名乗って多くの寺社に寄進した、桂昌院の真意はどこにあるのでしょうか。

 一世を風靡した姉と弟ですが、その出自は謎です。『徳川実記』には、桂昌院の父は二条家の侍の北小路太郎兵衛宗正で、兄の道芳が召されたさい「本庄」と称したとあります。桂昌院の京都屋敷用人河村隆永の日記(糸井文庫)によると、道芳と宗子・宗資は異母兄弟です。一説には宗子と宗資も義理の兄弟ともいわれますが、母が同じとする河村隆永日記(元禄15年5月8日条)の信憑性は高いと思います。糸井文庫の史料には、今宮が桂昌院誕生の地とも伝えますが、詳しい記述はなく、桂昌院と本庄一族のサクセスストーリーをはっきり知ることはできません。しかし浪人の身となった宗正をはじめ、複雑な関係の母や縁者一同が、京都周辺を転々としながらたいへんな苦労をしたことは、立身出世を果たした晩年の二人にとって、生涯忘れられないことだったでしょう。

 綱吉が将軍となった後、桂昌院と宗資が、側用人牧野親成・柳沢吉保、護国寺亮賢・護持院隆光らとともに元禄の政治・経済や学問・文化に直接かかわり、大きな影響力を及ぼしたことは、当時の記録により明らかです(『楽只堂年録』・『護国寺文書』・『隆光僧正日記』)。なかでも、今日私たちが直接目にすることができるのが、このとき再興された古刹・名刹の数々です。

 

花も実もあるシンデレラガール

 綱吉政権期の寺社造営・修復は、貞享2年(1685)の日光、翌年の熱田神宮をはじめとして、全国で106例ほどが確認されています。公儀普請で多額の費用が幕府から支出されましたので、本来は綱吉の名が冠せられるはずですが、「桂昌院再興!」のフレーズが世間にとおっている事例がたくさんあります。たとえば京都では上賀 茂・下鴨神社、嵯峨釈迦堂(清凉寺)、真如堂・・・。奈良では東大寺、法隆寺、春日神社・・・と、世界最古の木造建築・世界最大の木造建築も、このときの造営・修復がなければ今日の世界遺産はないといってよいでしょう。

 それだけではありません。近年、永井規男先生と城市智幸さんが、公儀普請の枠外で、本庄宗子と本庄宗資が私的に行った善峯寺・金蔵寺・今宮神社・槇尾西明寺の造営について研究を進められています。特に善峯寺と金蔵寺は、桂昌院と本庄一族の菩提寺として篤い信仰が寄せられ、特別な存在だったことが明らかになりつつあります。

 元禄の寺社造営が幕府財政を圧迫し、民衆の疲弊を招いたという評価もありますが、今日の京都・奈良の古刹・名刹が守られた意義を、もう少し深く考えてみる必要があるようです。このような時代の動きが、庶民の意識や価値観にも大きな影響を及ぼし、広く受け入れられたことも見過ごすことができないと考えるからです。桂昌院がすごいのは、ハードだけではなく、途絶えていた葵祭や今宮神社の祭礼再興なども行い、灯籠・道具・飾り物などを、きめ細かく寄進していることです。私は長岡京市域の寺社悉皆調査に参加させていただきましたが、村人による半鐘・三具足、石灯籠・石鳥居などの寄進がこのころに顕著になることが、強く印象に残っています。幕府による元禄の寺社再興のうねりが、桂昌院というシンデレラをとおして社会に深く浸透し、現代に受け継がれていることを意識すると、いろいろなことが見えてきます。

 桂昌院と本庄宗資ゆかりの寺社を訪ねてみれば、元禄の寺社再興を象徴するかのように、三つ葉葵や繋ぎ九つ目紋(本庄氏の家紋)があしらわれた鬼瓦や銅灯籠に出会います。まだまだわからないことが多いのですが、次なる発見が楽しみです。

 

 ー参考文献ー

・城市智幸・永井規男「金蔵寺・善峯寺の双子堂の同時造営について-桂昌院とその建築 その1-」平成27年度日本建築学会

 近畿支部研究発表

・城市智幸・永井規男「今宮神社の元禄造営について-桂昌院とその建築 その2」平成28年度日本建築学会近畿支部研究発表

 ・藤本仁文「元禄の寺社行政と本庄宗資-賀茂葵祭再興を中心に-」『丹後・宮津の街道と信仰』京都府立大学文化遺産叢書第5集 2012年

・糸井文庫書籍閲覧システム 立命館大学アート・リサーチセンター

・糸井文庫「河村隆永日記」河村隆永は京都の桂昌院屋敷に勤めた用人。寛文2年(1662)から享保17年(1732)の70年間に及ぶ御用日記を残した。糸井文庫のものは、宮津藩主本庄氏の命で、その家臣山本久淳が写した書き抜き5冊。

 

 

本庄宗子・本庄宗資による特別な造営 百瀬ちどり所蔵『拾遺都名所図会』。ご自由にお使いください。

善峯寺

 

金蔵寺

 


今宮神社

槇尾西明寺


2018今宮例祭

2018葵祭


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