三思一言◆ 2020年06月23

柳谷門前-『都百景』の遠い記憶-

◆彩色木版画の名所絵ブーム

 幕末のころ、『江戸百景』、『浪花百景』といった美しい木版画の名所絵が次々と刊行され、『都百景』もそのようなブーム中で人気を集めました。文字通り図版100枚と目録2枚のセットで、版元は大阪の「石和(石川屋和助)」。歌川北水・歌川国員・梅川東居・川部玉園・四方春翠の5人の絵師が、都の風景を情緒たっぷりに描く洒落た錦絵です。中判縦絵という新しい機軸と、それを巧みに生かした構図が新鮮で、遠景は普通に描き、近景を極端に拡大して、その対比で意外な面白さを引き出し、読者を楽しませます。

 この中の一枚「洛西柳谷」(東居筆)も、遠景は柳谷観音(楊谷寺)の門前、近景は岩・松・谷川の組み合わせとなっています。しかし今の私たちが、この風景が柳谷観音であることを理解するためには、一工夫が必要です。かつての遠い記憶を手繰り寄せて、この絵の世界を読み解いてみましょう(図版は「京の記憶アーカイブ」より)

◆江戸時代の参詣道と門前茶屋

 かつて京都・大阪方面から柳谷へは、①淀・八幡~友岡~下海印寺・金ヶ原経由、②向日町~奥海印寺経由、③島本・山崎経由と大きく三方の道が使われました。このうち①と②の場合、弥勒谷十三仏(浄土谷との分かれ道)のところで、柳谷川を越えなければなりません。この絵の近景(岩道と谷川)は、「やっと柳谷だ!」と誰れもが一息つく、まさにその場所です。そして図に示したとおり、七町地蔵から柳谷川を左手に一町地蔵まで辿り着くと、視界が急に開けて左右が谷田となります。一町地蔵周辺の小字は「大門(だいもん)」。ここからが楊谷寺の境内となり、近景と遠景を結ぶ細道は、「大門」から表門石段下の門前に至る、昔の参詣道を描いているのです(現在は入り口が第2駐車場となり、そこから石段下までの通用道が旧参道)。

 楊谷寺の門前に茶屋がたてられるようになったのは、量空是海による寺運興隆の頃-元禄年間のことで、『都名所図会(拾遺)』には草葺きの建物が並んで描かれています。江戸時代終わりには「木屋」と「玉屋」という旅籠となり、『都百景』の遠景に描かれる門前の瓦葺き建物は、この二軒の姿にほかなりません。江戸時代の終わりに建てられた東寺前(西国街道と鳥羽街道の交点、矢取地蔵前)や久我縄手四辻(羽束師川)道標には、京有数の名所と共に「柳谷」の文字が刻まれています。今も残るこのような立派な道標をみると、『都百景』に柳谷観音が選ばれた理由を推し量ることができます。

◆大正の府道新設と新門前

 明治28年(1895)の銅板画から、旧参道と門前のようすをみましょう。これは第4回内国博覧会(平安遷都1200年記念博覧会)を契機とした熱狂的な観光ブームの中でつくられたもので、石段下に至る道に「京街道・向日町操車場道」・「大坂神戸街道・山崎停車場道」と記載されています。

 小字柳谷(木屋と玉屋の裏側)から小字大門までの谷筋は、この画のとおり田圃が連なっていましたが、大正期の府道新設により山を切り取り、その土砂で参道両側を埋め立て、新しい門前がつくられました。そこに旭屋が開業し、往時は筒屋(御香水を持ち帰る竹筒を販売)という土産物屋もあったという賑わいです。

 現在は、「京街道」と「大坂神戸街道」が広い府道でつながり、木屋と玉屋がなくなり、その跡地は駐車場や庭園となっていて、往時のようすを想像することは難しいことです。しかし石段下に至る大門(一町地蔵)からの旧参道は、第2駐車場からの通用道として今も利用できますので、遠い記憶となった『都百景』の情緒と、大正期につくられた新門前の活気に、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

-参考文献-

・『彩色木版画集 都百景』 京都新聞社 1994年

・永井規男「集落と民家」『長岡京市史』建築・美術編 1994年

・大塚活美「描かれた幕末の京都-『都百景』の制作と構成について-」『アートリサーチ』11号 2011年

 

都名所図会(拾遺) 『新修京都叢書』12

弥勒谷十三仏→大門→門前


向日市文化資料館蔵

門前の風景(昭和初め)

楊谷寺参道と門前(明治28年、楊谷寺蔵)


門前

旧参道(茶所下)

旧参道(第2駐車場から門前へ)

一町地蔵付近 小字大門


二町地蔵

五町地蔵

弥勒谷十三仏

弥勒谷十三仏


西国街道T鳥羽街道 柳谷道標 矢取地蔵前

久我縄手+菱川 羽束師川道標