三思一言 続・つれづれに長岡天満宮(31) 2021.02.08

古典の精華 -幽斎から八条宮へ-

◆幽斎は老年ゆえ -家康からの書状-

  幽斎と八条宮智仁親王の初めての接触は、文禄4年10月2日、「詠歌大概(藤原定家の歌論書)」の談義でした(『兼見卿記』)。これをきっかけにさらなる講釈を請われた幽斎は、長年心に抱いていた「伊勢物語」の注釈書をまとめあげ、翌年3月~4月に12回に及ぶ講釈を行います。そして「雨中吟(藤原定家の歌論書)」講釈、和歌の添削・指導へと進んでいきました。

 幽斎が智仁親王へ古今伝授の意向を伝えたのは、慶長5年2月16日。徳川家康の書状を以てのことでした。家康と幽斎は、吉田兼見を介して囲碁や学問談義を楽しむ昵懇の仲です(『兼見卿記』文禄3年4月2日条、文禄3年5月4日条等)。兼見は後陽成天皇の禁裏番衆として、さらにその母勧修寺晴子、弟君の智仁親王から信頼を寄せられていましたので、この件の推進役として一役あった可能性は十分に察せられます。慶長3年に豊臣秀吉が亡くなった直後であり、微妙な情勢のなかでの申し入れですが、「(才能を見込んだ親王へ)老年の儀ゆえ早々の伝授」を望むという「存分」は、幽斎の偽らざる真情であったにちがいありません。

 この時幽斎は67歳、智仁親王22歳。家康の書状はその2日後、大坂にいた徳善院(前田玄以。幽斎・兼見と昵懇)から宮家へと伝えられ(「智仁親王御記」)、「若年ゆえ」と斟酌する親王へ、更なる説得が行われました。

 ◆古今講釈の開始と別離の宴

 智仁親王が幽斎へ古今伝授の誓状を提出したのは翌3月19日で、さっそく講釈が始まりました。幽斎はこの時の気持ちを「今はゝや ゆつりやはてん 昔みし いもかかきねを とつる葎(むぐら)に」と詠んでいます(衆妙集「慶長五年三月廿五日式部卿智仁親王邸にて古今講釈後の当座に、故郷庭草を」)。

 古今講釈はどのように進んだのか?。それは智仁親王の当座聞書本(聞き取りノート)や中書(初稿)本が揃って残っていますので、春・夏・秋・冬・賀・離別・覇旅・恋・哀傷・雑・雑体・物名と、中断を挟みつつ4月29日まで24回にわたって進められたことが確認されています。重要な歌を選んで秘伝とするのではなく、全ての歌を網羅するという徹底した講釈だったようです。

 しかし5月3日に家康からの上杉討伐の命をうけ、幽斎は大坂へ下向することになり、予定されていた「大歌所御歌」以下は講釈を続けることが不可能になりました。翌4日、幽斎は吉田に智仁親王・烏丸光広・今出川晴季らを招いて「乱舞(宴)」を催し、太鼓や「鯉の包丁」で皆をもてなしました(烏丸光広の記録『耳底記』)。幽斎の心情はいかばかりであったでしょうか。いったんは京都に戻りますが、情勢はいよいよ緊迫。5月29日、幽斎は参陣用意のため丹後へ下国したのです(梵瞬の日記『舜旧記』)。

◆籠城からの書状 -幽斎の述懐-

 慶長5年7月17日、大坂の細川屋敷では、石田三成からの人質要求を拒んだ忠興夫人玉(ガラシャ)が自害して果てるという悲劇がおきました。西軍の軍勢は丹後の幽斎にも差し向けられ、田辺城での籠城が始まりました。紹巴の月次連歌会の常連であった西洞院時慶の日記等から、これに対する智仁親王の幽斎救出の動きや、それを見守る公家らの心中を窺うことができます。

 7月27日、智仁親王は徳善院の使者と家従大石甚助を遣わして開城を勧めます。これに対する幽斎の書状(写・草案が3点)伝わっており、ここでは使者3名(東條紀伊守・上田勘右衛門・三好助兵衛)宛の1点を紹介しましょう。東條紀伊守(東條行長)は、もと豊臣秀吉に仕えた武士で、このころは徳川家康と公家・大名衆との調整役をしており、幽斎とも連歌座を共にした人物です。

 書状の前半は、信長や秀吉にも「似合の忠節」に励み、秀頼を疎略にしようという気もあるはずはなく、此度の戦も「是非に及ばず」という述懐です。後半は古今相伝の箱・古今伝授証明状、「古も今もかはらぬ世の中に 心の種を残すことのは」の短冊、并に源氏抄箱、廿一代集を禁裏へ進上し、知音衆へも草紙箱を渡し、「これでもう思い残すことはない」と真情を吐露しています。

 実はこの時の籠城から出された書状がもう1通あり、幽斎の本意をうかがうことができます。それは7月晦日付・烏丸辨宛のもの(駒澤大学電子書庫)で、事前に八条宮から使者が派遣されることが幽斎に知らされ、それに対しての返書です。光広は吉田の庵に度々幽斎を訪ね、教えをうけていた愛弟子で、「禁中へ廿一代集、八条宮へ古今相伝之箱・証明状并一首、源氏物語抄を進上する。禁裏への進上は、八条宮への進上と同然なので、堅くそのままにしておくように」と、念入りに本心を伝えました。

 籠城を続ける幽斎への対応策を図るため、8月21日、八条宮家従大石甚助・也足軒(中院通勝)・富小路秀直は、大坂の徳善院のもとに向かい、9月3日に勅使が派遣されました。しかし幽斎はこれにも応じず、さらに9月12日に三条西実条・中院通勝・烏丸光広が、前田茂勝(前田玄以の次男)と共に勅命を以て開城を促します。ここに至り幽斎はついに講和に応じ、関ヶ原合戦直後の18日に田辺城を出て、亀山城に入ったのでした。

◆伊勢物語・古今和歌集から源氏物語へ

 かりそめの証明状を受け取った智仁親王と京へ戻った幽斎は、あらためて古今伝授の講釈と聞書の完成に没頭します。失われた時を取り戻すがごとく、ある時には八条宮屋敷へ泊まり込んでという熱の入れようです。このことは次回にくわしく述べることにして、大切なことを一つ付け加えておきましょう。それは、籠城からの書状にもある「源氏物語」のことです。智仁親王への講釈開始は「伊勢物語」ですが、古典の精華である「源氏」の伝授がまだ終わっていません。

 幽斎は足利義輝に仕えていた若き日から、コツコツと「源氏物語」を学び続け、信長家臣となった元亀3年9月には、勝龍寺城にて紹巴から講釈を受けています。注釈や聞書を書き入れた自筆本五十四帖が残っており(永青文庫蔵)、今もなお、幽斎の「源氏物語」への深い思いを知ることができます。

 下に掲げた写真は、三条西実枝から九条稙通へと伝えられた「源氏物語」三箇の大事を、智仁親王へ授けるという証明状です。注目すべきは、その時期「慶長十五年八月上旬」。幽斎は慶長13年の年末に危篤の状態となり(『兼見卿記』慶長13年12月11日条)、翌年には吉田兼従(幽斎と兼見の孫)が、見舞いに訪れました(同14年12月19日条)。幽斎が三条車屋町の屋敷で息を引き取ったのは慶長15年8月20日ですので、この証明状は亡くなる直前に書かれたことになります。最期の渾身の力で、古典の精華を八条宮に伝えようとしたのでしょうか。

 

-参考文献-

・小高道子「細川幽斎の古今伝授-智仁親王への相伝をめぐってー」『国語と国文学』57 1980年

・冨坂賢「古今伝授と細川幽斎-歌道にみる戦国のネットワーク-」『細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション-』2010年

・徳岡涼「細川幽斎はいかに源氏物語を読んだか」『戦塵の中の学芸』 笠間書院 2010年

・『武将幽斎と信長 細川家古文書から』 熊本日日新聞 2011年

・『細川幽斎と舞鶴』 舞鶴市教育委員会 2013年

・森正人「細川幽斎詠『いにしえも』歌の本意」 『尚絅語文』(8) 尚絅大学文化言語学部ほか 2019年

・『光秀と幽斎~花開く武将文化~』 京都府立山城郷土資料館 2019年