三思一言 続・つれづれに長岡天満宮(35)  2021.04.03

洛中屋敷と洛外の御茶屋

◆下桂・御陵・開田・鷹峯

  豊臣秀吉によって八条宮家が創設されたのは天正17年(1589)。翌年親王宣下を受けた初代智仁親王は、母と共に新御殿へ移徒しました。慶長10年(1605)には、徳川家康から現在の今出川通りの南に屋敷地を与えられました。以来、明治初めに宮家が廃絶するまで本邸を営み、その場所に今も門・築地塀や庭園跡が保存されています。

 八条宮家の領知は、当初山城国宇治郡石田・小栗栖・木幡にありましたが、その後丹波国船井郡・多紀郡に移されていました。そして関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)、家康によって桂川右岸の下桂・川勝寺・徳大寺・御陵・開田村などの3000石余りとされ、これを元和3年(1617)に秀忠が改めて安堵しました。

 元和のころから智仁親王は、源氏物語ゆかりの桂殿の地に茶屋(別荘)の造営をはじめ、「瓜畠のかろき茶屋」とよばれる書院をつくり、寛永元年(1624)には庭園も完成したといわれています。

 しかし寛永6年に智仁親王が死没。しばらく荒廃していた下桂の御茶屋を再整備・拡張したのが2代智忠親王で、合わせて西山の山麓に、眺望を楽しむ御陵御茶屋(書院・地蔵堂・池)も造営。また開田には大池を開き、そこに智仁親王と細川幽斎ゆかりの建物を移築。そして傍らに中世よりの村の氏神・開田天満宮を祀って開田御茶屋としました。さらに江戸時代中期、京極宮家仁親王の代になると、鷹峯にも御茶屋を造営。このころには洛中に2つの屋敷(今出川・石薬師)と洛外(下桂・御陵・開田・鷹峯)に4つの御茶屋があったのです。

◆桂宮家と細川幽斎の遺徳顕彰

 ここでは4つの御茶屋のうち下桂と開田について、細川幽斎の遺徳顕彰という視点でみてみましょう。智忠親王は、父智仁親王の思い入れが深い下桂御茶屋に「園林堂」を建て、そこに位牌・尊像と細川幽斎の画像を納めました。かつては幽斎からの「古今伝受」にまつわる書簡も含まれていたようで、宮家にとって幽斎の存在がいかに大きいものかを窺い知ることができます。

 一方、智仁親王と幽斎の「古今伝受」が行われた建物(学問所)は、京での火災の難を避け、開田の大池西の丘の上に移築して「御茶屋」とします。そこが幽斎が三条西実澄(実枝)から古今伝授をうけた勝龍寺城を見晴らす場所だったからにほかなりません。

 元禄期になると幽斎→智仁親王→後水尾天皇→後西天皇と続く古今伝受をうけた霊元天皇は、皇子が宮家に入ったのを機に、開田御茶屋と開田天満宮の再興に乗り出します。御茶屋を丘の上から大池の畔に移し、台所や客間を増築して、宮家の当主や客人が滞在できるように整備します。そして毎月の代参や洛中屋敷からの遥拝が定着し、やがて開田天満宮は「長岡藤孝→長岡幽斎」にちなんで、「長岡天満宮」とよばれるようになったのです。京極宮と号する家仁親王は初代智仁親王に傾倒し、下桂御茶屋の再整備を図り、霊元上皇と共に和歌や学芸に没頭しました。また、その子公仁親王も父の資質を受け継いで和歌への造詣深く、3度も長岡天満宮に参詣して、法楽和歌を詠んでいます。

 明和7年(1770)に公仁親王が没した後、しばらく当主のいない時期が続き、文化7年(1810)に光格天皇の皇子・盛仁親王が入り、桂宮と号しました。しかしわずか1年で死没。また当主が空白となり、天保4年(1833)に入った節仁親王(仁孝天皇皇子)も早世。この間、家司らによって代参や遥拝は絶えることなく続けられましたが、開田御茶屋は主要建物のみに縮小されました。

 そして当主不在のまま迎えた安政6年(1859)の幽斎250回忌。桂宮家では8月20日の忌日に園林堂の幽斎画像に供物を捧げ、家司が代拝に向かいました。そして幽斎に大明神の神号を授け、長岡天満宮連歌所の池辺に社殿を造替して勧請します(「桂宮日記」安政6年8月20日条)。祝詞の結びは「天下泰平・国家安全・社頭康栄、殊には朝家繁栄・御家門御静謐・御家臣祠官等安寧・万民豊楽」とあり、幕末の不穏な情勢のなか、改めて幽斎の霊徳にすがろうという心情を感じることができます。

 それから3年後の文久2年(1962)、澄子内親王(仁孝天皇皇女)が桂宮家を相続します。しかし間もなく明治維新。桂宮家は新たな時代のなかで変容を迫られます。

 下に掲載した明治8年の長岡天満宮境内絵図をご覧ください。長岡大明神と御茶屋の建物がなくなっていますね。また今出川の本邸や下桂御茶屋ほかは、どのような運命に翻弄されていくのでしょうか。次号の最終回は、明治初めの動きを追い、現在の姿に辿り着く歴史について述べましょう。

ー参考文献ー

・西和夫「古今伝授の間と八条宮開田御茶屋」『建築史学』第1号 1987年

・西和夫・荒井朝江「桂宮家御陵村御茶屋と地蔵堂」『日本建築学会計画論文集』第380号 1987年

・荒井朝江「二条城本丸旧桂宮御殿の前身建物とその造営年代について-桂宮家石薬師屋敷寛政度造営建物と今出川屋敷への移築」『日本建築学会計画論文集』第387号 1988年

・西和夫『近世の数寄空間-洛中の屋敷、洛外の茶屋-』中央公論美術出版 1988年

・小沢朝江「桂宮家における本邸屋敷の造営とその担当大工について」『日本建築学会計画論文集』第467号 1995年

・藤井譲治「近世の長岡天満宮」『長岡天満宮史』 長岡天満宮 2002年

・『古今伝授の間修理工事報告書』 ㈶京都伝統建築技術協会 (公財)永青文庫 2011年

・斎藤英俊『新装版・桂離宮』 草思社 2012年