三思一言◆ 2022.09.08

金原法華堂から土御門天皇金原陵へ

◆土御門天皇と承久の乱

 土御門天皇は、後鳥羽天皇と源在子(承明門院)の第一皇子として生まれ、建久9年(1198)にわずか4歳で即位。しかし承元4年(1210)、後鳥羽上皇の意向で異母弟の順徳天皇に譲位します。承久の乱(1221)のさいには関与していないということで、鎌倉幕府から咎められることはありませんでしたが、自ら土佐国に移った後、幕府の配慮で阿波の国へ。そしてこの地で37歳で亡くなり、火葬に付されました。届けられた遺品を前にした 母・在子らの嘆きは、「いみじうあはれにて、御目もきりふたがる心ちし給う」と『増鏡』(「藤衣」段)にとりあげられて、後々に記憶されていったのです。

◆金原法華堂の造営と山陵使派遣

 土御門天皇の遺骨は、遺言によって京都へ還御。そして天福元年(1233)、承明門院によって「金ヶ原」に御堂(法華堂)が営まれることになりました。藤原定家の日記『明月記』(天福元年12月11日~12日条)には、承明門院らが落慶法要に向かう様子がくわしく記されています。12月11日朝、承明門院は七条朱雀を立ち、夕方に円明寺へ宿泊。多くの女房を引き連れ、牛車五両を連ねての渡御です。翌12日、天台僧の安居院聖覚を導師とし、承明門院の兄弟3人(源通親の子息通光・定通・通方か)も子息らを率いて列座するなか、盛大な法要が行われました。比叡山竹林房の聖覚は唱導法談の名手で、法然に師事して浄土教にも帰依した僧侶です。

 仁治3年(1242)には後鳥羽院大原法華堂と共に、後嵯峨天皇の即位を報告する山陵使の派遣先となり、この年10月11日の土御門忌日には、国忌として承明門院らが参列して、法華八講の法要が営まれています(平戸記)。また寛元2年(1244)の13回忌にも、承明門院臨席のもとで法華八講がありました(『増鏡』)

◆文久2年の治定と改修

 承明門院は正嘉元年(1257)年に87歳で死去。その後金ヶ原の御堂がどのようになったのか、全くわかりません。幕末期の山陵調査(山陵考)によれば、金ヶ原村西北の山傍に大石が2つあり、地元ではここを「石塚」とよび法華堂跡という言い伝えがあったこと、さらにこの塚の東南の畑の字を「金原寺跡」とよぶことが記されています。このことから「石塚」が法華堂の跡と治定され、文久2年(1862)、2つの石を取り囲んだ八角形の塚に改修されたのです。国立公文書館内閣文庫蔵『文久山陵図』の「荒無」と「成功」の図を見ると、前者(改修前)は「山陵考」の記述と一致します。後者(改修後)は石を取り囲む封土や堀だけでなく、南東部の木製の鳥居、柵で囲まれた拝所の石灯籠、2つの石の側には駒札と、全体のようすが詳しく描かれています。これも明治10年ごろの「乙訓郡村誌」の記述と整合します。周辺の地形や土地利用も、現況がよく反映されていますので、2点の図は、実地見分に基づいて作製されたものとみてまちがいありません。

 そして、もう一つ「金原寺」の存在が重要で、御陵の北側の谷一帯は、現在も「金原寺(こんげんじ)」の字(地名)です。ここは平安時代、朝廷から「西の清水寺」として尊崇された柳谷・浄土谷への入り口。「金原寺」の別院だったという地蔵院(金ヶ原旧集落)には、古仏・阿弥陀如来(もと薬師如来、9世紀作)と、「本山金原寺」の墨書がある台座が伝わっています。また寺伝からは、字「金原寺」に最澄が開基した七堂伽藍の法華堂があり、享保年中に現在地へ移転したことが窺えます(寺院明細帳)。これらを考え合わせると、承明門院がここ金ヶ原の地に御堂を営んだのは、天台宗ゆかりの「金原寺」があったからだとみてよいでしょう。

 「山陵考」には「東南の畑」がその旧跡だとありますので、法華八講を修し、朝廷からの山陵使を迎える複数の堂宇が、金原寺南の丘に新造・増築されたのかもしれません。この丘から正面に望む比叡山と、美しい棚田のなかに佇む杉木立の御陵をみると、旧暦12月の寒い中、土御門院の菩提を弔うため落慶法要に参列した承明門院と、縁故の貴族たちの姿が想い起されます。

 

-参考文献-

・『長岡京市史』資料編二・本文編一

・鶴沢探真画・外池昇ほか『文久山陵図』 新人物往来社 2005年

・上田長生「江戸時代の天皇陵-幕末期の陵墓修復と地域社会-」『歴史のなかの天皇陵』 思文閣出版 2010年