三思一言

中山修一の「長岡京復元図」

 

-2017夏、中山修一記念館15周年ー

 今年の夏は木村泰彦さんの「長岡京天神駅周辺の長岡京条坊遺構」、國下多美樹さんの「長岡・平安の市を考えるー古代の公営市場ー」の御講演を拝聴しました。お二人とも若い時から中山先生とともに長岡京発掘に汗を流し、研究をリードされてこられた方です。最新の充実した内容で、とても勉強になりました。

 また8月には、長岡京市埋蔵文化財センターによる右京第1158次調査(長岡第十小学校)、右京第1159次調査(長岡京駅前線)の現地説明会がありました。猛暑のなか若手とベテラン調査員による熱の入った説明に、新しい長岡京発掘を予感してワクワクしました。

 さらに今、中山修一記念館では開館15周年の連続ミニ講座が行われています。長岡京発掘の積み重ねと、それをより大きく展開していこうとするたくさんの方々のエネルギーに、あらためて胸を打たれます。

 -二つの長岡京復元図-

 昭和30年の第1回長岡京発掘以来今年で62年。宮域・左京域・右京域の発掘は合計2250回以上に及ぶとのことです。今回は長岡京発掘の試金石とよぶべき中山修一の長岡京復元図、2点について紹介しましょう。

①長岡京大内裏付近遺物分布図(3000分ノ1)

         昭和31年製作 製図印刷 2色刷 中山修一40歳

 昭和29年改訂版の京都市都市計画図に、大極殿・朝堂院と条坊の推定を入れ、礎石・瓦・凝灰岩などの分布や採集地点を示している。2015年、未刊「乙訓郡誌」の原稿とともに発見された中山の未発表論文の付図であることがわかった。京都大学地理学教室の小野光正に製図を依頼したものである。

 

②長岡京復元図(3000分ノ1)

      昭和42年作図 中山手書き 220×165.8cm 中山修一51歳

 昭和11年改訂版の京都市都市計画図を貼り合わせ、長岡京の条坊や大字を色マジックで示している。復元に到る「近衛の蓮池」、「本当の大極殿地名」の場所などを一目でわかるように黄色く塗り、さらに発掘から得られた大極殿・朝堂院、内裏の正確な位置を正確に書き込んでいる。


-長岡京発掘の画期と中山先生の復元図づくりー

 昭和30年、長岡京発見のニュースは大きな反響をよびましたが、そのあとは暗中模索で、周りは調査もされずどんどん開発されていきます。「31年の乙訓中学校の発掘調査は苦渋に満ちたものであった。今思い出しても大きな不快さと、裏腹の懐かしさを覚える」と、普段あまり弱音をいわない中山先生が、そのころの心情を吐露しています。

 ①の「長岡京大内裏附近近遺物分布図」はまさにこの苦渋のなかにあったころ、先生が京都大学地理学教室で取り組んだ論文作成のなかでつくられたものです。地元の人々とともに奔走してさらに確信した長岡京の存在を、考古学による学術調査で明らかにしていかねばならないと先生は苦しんでいました。昭和31年の夏休み、苦手な瓦の拓本とりに苦労しつつ書き上げた論文は、訂正・修正とやり直しの連続で公表には至りませんでしたが、先行して印刷された「長岡京大内裏附近遺物分布図」は、その後の長岡京発掘の原点となりました。

 昭和30年代半ばごろになると、京都大学による発掘が軌道にのり、中山先生もそのメンバーとして八面六臂の活躍をします。大極殿・朝堂院の遺構が次々と明らかになりますが、内裏の調査が行われるころ、昭和40年代になると、学術調査という方法でだけは長岡京発掘に対応することが不可能になります。周辺の激しい開発ラッシュになすすべもない深刻な事態は、あらたな長岡京発掘への方向転換を余儀なくします。長岡京の状況と同じことは、全国の遺跡でも起こっていました。学術的な考古学的調査に加えて、地域住民と行政がともに進める「埋蔵文化財」の行政発掘を指向する、おおきなうねりが各地で起こっていたのです。

 ②の「長岡京復元図」は、まさにこのころの時代の転換点のなかで生み出されたものです。昭和28年に3000分ノ1都市計画図をベースとし、師の藤岡謙二郎へ提出した元祖「条坊復元図」をもう一度つくりなおしたのが、現在中山記念館に保存されているものです。元祖「条坊復元図」を再利用した可能性はありますが、大極殿・朝堂院の位置と規模が正確で、昭和41・42年発掘の内裏築地回廊の調査成果を盛り込んでいますので、この手書きの図の制作時期を一言でいうならば「昭和42年」と表現してよいでしょう。前年に結成された乙訓の文化遺産を守る会や京都府の文化財技師らと長岡京発掘を進めていくため、自らの信念をカタチにした最新の「長岡京復元図」をつくっていたのです。

 

-今なお届け!中山修一のメッセージー

 ②の復元図をつくっていたころ、先生は「長岡京発掘にあたっての悲しい誤算」という一文を乙訓の文化遺産を守る会の機関紙「乙訓文化」に投稿しています。そこでは述べられているのは「一つ一つの都にはそれぞれ固有の特長というものがある」ということです。そして乙訓の文化遺産を守る会の小林清さんと文化庁に出向き、都の個性を明らかにする発掘の重要性について坪井清足さんと議論したことも記されています。平安京型でもなく、平城京型でもなく、長岡京型ともいうべき都の個性の重要性を、この時すでに先生は深く認識していたのです。これこそが、まさに現在なお求めてやまない長岡京研究の重要なテーマです。

 中山修一がつくった①の精緻な「大内裏附近遺物分布図」は長岡京発掘の原点を、②の大きな「長岡京復元図」は長岡京発掘の信念を、これからの調査・保存・公開・研究に対する変わらぬ強いメッセージとして伝えていくことでしょう。小林清さんの資料のなかに、乙訓文化遺産を守る会が昭和42年に開催した「郷土史展」の写真があります。そこにはこの大きな復元図を前に、参加者に微笑みかける中山先生の姿があります。どんな困難ななかでも周りの人々を信じ、それを自分の信念(学問)に昇華し、それがまた周りの人々を勇気づける中山先生の人生を、ささやかながら語り続けていきたいと思います。

 

2017年8月20日 中山記念館にてミニ講座「ひらめきをカタチにー二つの復元図と修一の学問ー」 暑い中ご来聴いただきありがとうございました。

-主要参考文献-

⑴ 中山修一「長岡京発掘にあたっての悲しい誤算」『乙訓文化』第11号 1967年。

⑵ 中山修一「長岡京条坊の復元」『乙訓文化遺産』2号 1967年

⑶ 中山修一「長岡京大内裏付近遺物分布図の作成まで」『向日市古瓦聚成』1987年

⑷ 中山修一「長岡京の発見」『長岡京市史』本文編一 1996年

⑸ 向日市文化資料館展示図録『長岡宮大極殿の発掘と地元の人々』 2016年

 

長岡京市立中山修一記念館

中山先生没後、ご遺族から生家の一部と蔵書が寄付され、記念館として整備された。座敷には床の間に収まらないくらいの大きな長岡京復元図が展示され、長岡京関連図書の閲覧もできるようになっている。中山先生の顕彰とともに、広く郷土学習の拠点として活用が図られている。

長岡京発見の地」石碑

長岡京は向日市・長岡京市・大山崎町・京都市にまたがる。発掘は宮域・右京・左京ごとに全てに通し番号を付し、情報共有と切磋琢磨の研究が進められている。この石碑は、中山先生が長岡京の存在を確信したほど近い場所に、発掘2000回を記念して長岡京市が建立した。(建立平成23年。長岡京駅前交差点)