三思一言2017.10.19

中山修一「長岡京発見のみち」を歩く

長岡京発掘の盟友

 中山修一は、長岡京発掘の険しい道のりを、たくさんの人たちに支えられながら乗り越えました。ここでは小林清と高橋美久ニを紹介します。

 小林清(1916~1975)は、自分の土地の一部で大極殿跡の発掘調査が行われたのがきっかけで中山と知り合いました。次々と明らかにされる遺構に触発されて、長岡京の調査に参加するようになります。昭和41年には乙訓の文化遺産守る会結成の中心メンバーとなり、事務局長として長岡京発掘や文化遺産を守る運動を推し進めました。また、瓦の研究から大極殿・朝堂院の難波宮移建を明らかにし、長岡京廃都の要因として洪水説を打ち出すなど、長岡京研究に大きな足跡を残しています。

 高橋美久ニ(1966~2006)は、京都大学地理学教室出身、中山の後輩にあたります。昭和49年、京都府文化財保護課技師の立場にあった高橋は、京都府立向陽高校建設の事前調査を機として「京」域調査の道をひらき、条坊遺構の存在を明らかにしました。さらに長岡京で行われる調査のすべてに次数と地区名を付けて成果を集約するシステムをつくり、科学的な埋蔵文化財の研究を目指し、以後の長岡京発掘に大きな影響を与えました。

 二人の新聞記者

 中山は、魅力的な長岡京のPRマンでもありました。長岡京発掘のドラマチックな展開や中山の人間性は、マスコミ関係者を惹きつけました。

 朝日新聞記者の高橋徹が中山と小林に出会ったのは、乙訓の文化遺産を守る会が結成されたころ、京都府庁の記者室でした。当時二人は長岡京発掘への理解を求めて、文化庁や府の文化財保護課へ陳情に足繁げく通っていました。このころ、平城京や難波宮も含た都城の発掘は、広く社会の関心を集めていました。高橋はそこで長岡京の実情を知り、文化財の調査と保存を社会問題としてとらえ、『長岡京発掘』という本にまとめました。今でも長岡京発掘と文化財問題を考えていく名著だといってもよいでしょう。

 京都新聞記者の古鉄勝美は長年中山とつきあい、平成7年の京都新聞夕刊で「たどり来し道」を連載します。中山が最晩年に自らを回顧し、なおこれからの夢を語ったインタビュー記事(22回)は、大きな反響をよびました。この連載は没後、『中山修一ものがたり』として本にまとめられています。これから長岡京と中山を知ろうとするかたは、ぜひご一読ください。

 

福山敏男・中山修一・高橋徹・浪貝毅『長岡京発掘』 NHKブックス74 1968年

古鉄勝美『中山修一ものがたり』 中山修一先生をたたえ胸像をつくる会 2004年

 

2017.10.15 長岡京市ふるさとガイドの会主催 乙訓歴史探訪ウォーク「中山先生 長岡京発見の道を歩く」 

中山修一が条坊復元の決め手とした3つのポイントをたどりました。小雨の中、ご参加ありがとうございました。

「長岡京発見の地」石碑

 中山修一が戦後まもなく移り住み、長岡京条坊の存在を確信したところ。平成22年に発掘2000回を記念して建立された。

今も残る条坊地割

 まちのなかに、今も条坊地割の痕跡が残る。阪急長岡天神駅を越えて八条ケ池までまっすぐに。古代の地割は強靭だ。

 


小畑川

 六斎橋から風呂川との合流地点。今は人工的に南流する。今も昔も、水をどのように制御するかは大問題だ

小畑川の扇状地

 一面の条里景観をみながら、一坪分の大きさを体感。正面は野山、背後は西山。長岡京の四条大路付近を歩く。

 

 


京都府立向陽高校附近(北から)

 昭和49年、初めて条坊遺構があきらかになったところ。グラウンドの擁壁に、そっと「長岡京三条大路跡」のプレート。京域発掘のみちをひらいた高橋美久二さんの思いを偲ぶ。

 

「近衛の蓮池」付近

 中山修一が条坊復元の決め手とした、左京三条一坊十町「近衛の蓮池」跡付近。今はJR操車場の下だが、向日丘陵先端の地形がよくわる。さあここから宮の中心部へ。

 


大極殿跡

 「ここがほんとうの大極殿」。聞き取りによる地名特定は、歴史地理学者中山を象徴する逸話の一つだ。小林清さんの屋敷跡を、公園として一体化する整備が行われている。

 

会昌門跡の石碑

 昭和30年、長岡宮の遺構がはじめて発掘されたところ。朝堂院公園内の表示と、写真中央の小さな石碑がそれを伝える。

長岡京「発掘のみちは、ここから始まる。