三思一言2018.08.30

《写真と図で見よう》

中山修一の「長岡京復元図」Ⅱ

◆「郷土史料展」の「長岡京復元図」

 自作の「長岡京復元図」を背に、聴衆に微笑む中山先生。まわりにはパネルがならび、展示ケースには考古遺物、机の上には古文書が展示されています。1967年6月4日、向日町公民館で行われた「郷土史料展」で出品史料の解説を行う中山先生52歳の姿です。

 この写真の存在については2017年8月掲載の中山修一の「長岡京復元図」の頁でご紹介しましたが、このたび向日市文化資料館のご了解をいただいて、写真を掲載させていただくことができました。

 私は1974年ころより中山先生の御指導のもとで長岡京の調査に携わりましたが、この復元図について先生から一度もお話しを聞いたことがありません。そのころには発掘調査で次々と条坊が発見され、若い人たちからいろいろな新説が出されていましたので、先生はそれを楽しまれているかのようでした。

 この「長岡京復元図」を初めて目にしたのは、先生が亡くなられた後、中山記念館が開設されて、床の間に飾られるようになった時のことです。しかし、じっくりと見たこともなく、「大切な資料」と眺めているだけでした。昨年、中山記念館でお話しをさせていただく機会を得て、向日市文化資料館で紹介されていた小林清さん撮影のこの写真を見て、初めて中山先生の復元図がどのような思いでつくられ、語られたのか知りたいと思うようになりました。

 

◆中山修一の「長岡京復元図」に学ぶこと

 長岡京発掘におけるこの復元図の歴史的な評価を述べるのは、まだまだ力が及びませんが、私が今感動している内容を2点述べておきましょう。まず第1は、長岡京復元の3つのポイントを色塗りして、明快に示していることです。単に平安京型をあてはめて描いたのではなく、地形や地割を考慮して微調整しながら復元していますので、今日の長岡京復元図と比べても大きな齟齬を感じられないのは驚くべきことです。2点目は、大字名を大きく入れて、長岡京の範囲を地元の人に理解してもらおうと努力しています。つまり、この図は、先生が自分の学術的成果を示すためだけではなく、地域の人たちに長岡京発掘の重要性を訴えるためにつくられているのです。

 当時の長岡京調査が直面していた抜き差しならない状況、そして次の時代に展開する長岡京全域を対象とした発掘調査の拡大を想い起こしてみれば、この復元図に学ぶことは奥深いものがあります。あらためて中山修一の長岡京復元に関心を向けてもらえればと、図や写真を掲載しましたので、御見学のご参考までに。

-参考文献-

・乙訓の文化遺産を守る会「乙訓文化」第10号 1967年

・向日市文化資料館展示図録『長岡宮大極殿の発掘と地元の人々』 2016年

中山修一が自ら示した長岡京復元の3ポイント

1(条坊地割の存在を確信した田圃)、2(「近衛の蓮池」を特定した田圃)、3(「ほんとうの大極殿」の地名を特定した場所)の3箇所に、自ら色を塗っています。中山記念館に展示(複製品)されていますので、行かれたときにはぜひここをご覧ください。

中山修一長岡京復元のワン・ツー・スリー

中山先生が、条坊復元図のなかに示した3ポイントを、よりわかりやすく見るために、大正11年測図3千分の1地図に表現してみました。赤線の条坊地割は、先生の主張を百瀬が図示しました。〈イ〉~〈ロ〉は、下に示した条坊地割の現況写真と対応します。



〈イ〉第7小学校北の東西道路。乙訓寺東門につながります

〈ロ〉今里旧集落の東西道路。長法寺道につながります。


〈ハ〉長岡京市役所南の東西道路。通称アゼリア通り。

   現在では五条大路にあたると考えられています。

〈ニ〉開田集落の東西道路。


中山修一の長岡京復元

発掘でわかった長岡京条坊

(中山復元より、2町分北にずれると考えられています)