三思一言2019.02.18

 

「長岡宮城大極殿遺址」石碑と中山修一

◆中山修一・生涯の疑問

  大極殿公園にある「長岡宮城大極殿遺址」の立派な石碑は、明治28年の平安京遷都1100年記念事業で建立されたものです。当初はこの場所ではなく、約100メートル北にある公園のところに建てられていました。

 昭和28年秋、じめじめした田圃の一画を見て「ここが近衛符の蓮池、つまり左京三条一坊」とひらめき、長岡京の条坊復元図づくりとりかかった中山修一は、難問にぶつかっていました。あの明治28年建立の石碑がある位置と、修一が想定した大極殿の場所が合わないのです。そこで修一は地元の農家の人々に聞きまわり、「ほんとうの大極殿」地名をつきとめ、復元図を完成しました。しかし、勇んで恩師の藤岡謙ニ郎先生や梅原末治先生に報告したものの、「掘ってみなければわからない」という返事です。

 昭和29年12月26日、修一は「邪馬台国」研究のため上京し、その途中で文部省文化財保護委員会に立ち寄り、あの石碑のいわれについて尋ねてみました。そこで「国立文化財研究所美術部長の福山敏男博士に聞いてみたらわかるでしょう」と案内され、福山先生を訪ねて鎌倉に向かいます。当時福山先生は平安京大極殿の研究をしておられましたので、中山の長岡京復元に関心を示し、「ぜひ一度現地を見たいので案内してほしい」という思いがけないうれしい事態になりました。そこで、福山先生が来られるまでに何かはっきりしたものを・・・ということで、袖岡正清さんと掘り始めたのが、長岡京発掘の端緒となったのです。

 紆余曲折を経て、昭和36年3月~4月、ついに修一は福山先生とともに、「ほんとうの大極殿」の遺構を掘り当てました。そして大極殿跡が国の史跡公園として整備されたさい、あの石碑も「ほんとうの大極殿」の場所に移されました。しかし修一は、あの明治28年の石碑がどのようにして建てられたのか、生涯の疑問でした。そして最晩年、『長岡京市史』で「長岡京の発見」の節を執筆するにあたり、『平安通史』で長岡京を書いた湯本文彦の御子孫のもとへ行き、遺稿を調べてそれを解こうと努力しています。最後まで疑問を徹底的に追究する、修一らしいエピソードです。

 ◆「同志の者、相謀いて」

 修一の死後、その疑問を解いたのが玉城玲子さんです。玉城さんは、「長岡宮城大極殿遺址記念碑建設ニ係ル書類」(乙訓自治会館文書 歴彩館蔵)と「恩賜録」(宮内庁公文書館蔵)の簿冊に綴じ込まれている、岡本爺平の「長岡宮城私考」に注目し、あの石碑が平安遷都1100年記念事業のなか建立されていった過程を明らかにしました。そして文献史料・地名と、発掘した古瓦の考察にもとづく岡本の長岡京探求の先見性を高く評価されています。長年、乙訓地域の歴史を研究されている玉城さんならではのご明察です。

 さてあらためて、あの石碑をよく見てみましょう。表に「長岡宮城大極殿遺址」、裏に「明治廿六年二月、同志者相謀建此碑、碑面題字大勲位晃親王之書也、山階宮家令正六位勲三等黒岩直方謹記」とあります。

 まず前半にある「同志の者」とはいったい誰なのでしょう。京都の実業家有志が「桓武天皇遷都一千百年祭」開催を市会に建議し、内国勧業博覧会の誘致も併せて提案したのは明治25年(1892)5月のことです。翌年には、乙訓でもこれに呼応して、長岡宮にも大極殿の石碑を建てようとする動きが活発になります。明治27年10月に長岡宮城大極殿遺址保存寄付金募集の趣意書と建築碑石の略図がつくられ、創設会の委員長から各市町村町を通じて寄付集めが始まりますが(京都府立歴彩館蔵・乙訓自治会館文書)、この時にはすでに京都市奠都記念委員会から支援をうけることが決まっていました。石碑の落成は翌年(明治28年4月)であり、ハイスピードで事は進められました。その中心となって動いたのは長岡宮城遺址創設会の委員長(乙訓郡長)・岡本爺平・岡崎省吾の3名と、正木安左衛門らの地域の実力者たちです。

◆山階宮晃親王と宇田淵

 明治28年6月、強雨のためせっかくできあがっていた石碑の石垣が崩れ、7月4日に予定されていた建碑式が延期されます。なんとか修繕して、10月8日付で来る19日の建碑式を案内する通知が出されます。その招待者リストのトップに掲げられているのが、京都市参事会員・宇田淵・黒岩直方の3名です。

 最初の京都市参事会は、平安遷都1100年記念事業を推進した主体であり、最後の黒岩直方は、石碑を揮毫した山階宮晃親王の家令です。晃親王は、明治28年に開催された第4回内国博覧会や、平安京遷都1100年記念祭及び記念式典で、明治天皇の名代として勅語奉読のため奔走しており(「山階宮日記」・『平安遷都記念祭事務所報告』・『平安遷都記念祭記事』)、代理として家令の黒岩が派遣されたのです。晃親王はこのとき80歳でした(『晃親王御年譜』1938年、山階宮家発行)。

 残る一人は、「宇田淵」なる人物です。宇田淵は、当時宮内省出張所長を勤めていましたが、当時の記録には、表立った記載はありません。それなのに、なぜ彼が招待されたのでしょうか。

 まず宇田淵は、山階宮晃親王と公私共に親しい関係にありました(「桂宮日記」・「山階宮日記」)。淵の歌集『栗廼花』には、山階宮家の年忘れに招かれたさいに詠んだ歌や、晃親王追悼の歌が収められています。「長岡宮城大極殿遺址」への揮毫も、宮内省からの下賜金も、淵の尽力があったとみてまちがいありません。

 もう一つ大切なことは、「長岡宮城私考」を書いた岡本爺平をはじめ、長岡宮大極殿の建碑の主体となったメンバーの多くが、宇田淵の友人・門人であったことです(長岡京市森本芳博家文書、向日市文化資料館蔵『西岡風雅』)。

 そもそも桓武天皇の遺跡顕彰の動きは、明治16年に岩倉具視が出した「京都皇宮保存に関する意見書」にあり、これが後に具現化されたのが、平安京遷都1100年記念事業でした。長岡宮大極殿建碑の背景には、桓武天皇聖蹟保存への大きな流れがあったことを、改めて認識しておくべきでしょう。平安京の記念事業へは、乙訓郡の人々約200人が寄付をしていますので(『平安京遷都1100年記念祭協賛誌』)、関係した家々に、この時の資料が複数伝わっています(中山弥太郎家文書・正木彰家文書等)。

 このころ宇田淵は、宮内省京都出張所長として桂宮御殿の二条城への移築や、京都を訪問する皇室関係者の接遇に追われていました。平安神宮に祀る桓武天皇の神霊は、一時紫宸殿に安置されますが、それを護持し、岡崎へ無事送るのも、京都御所の取締人である淵の責任でした。勤王の志士としての生き方を全うした淵は、この年、長年勤めた公務から引退します。西国街道神足町出身で岩倉具視の側近・宇田淵はどのような人物だったのか、ページを改めてこれからくわしく紹介していきましょう。

 

-参考文献ー

・福山敏男 中山修一 高橋徹 浪貝毅『長岡京発掘』NHKブックス74 日本放送出版会 1968年

・中山修一「長岡京の発見」『長岡京市史』本文編一  1996年 

・保本野夢 「古都」京都と天皇の可視化 『空間・地理思想』9号 大阪市立大学文学研究科・文学部 2004年

・玉城玲子「長岡宮大極殿跡の探求と岡本爺平」『京都における歴史学の誕生―日本史研究の先駆者たちー』ミネルヴァ書房 2014年

裏側の碑文

地理調査所発行1万分ノ1(昭和30年2月)より



宮内庁宮内公文書館蔵「恩賜録」(識別番号206-2)の簿冊より、岡本爺平の「長岡宮城私考」と共に添付された図。明治28年10月、長岡宮大極殿跡保存のため、宮内省から100円が下賜されることが決まりました。

平安京「大極殿遺阯」石碑 明治29年京都市参事会建立 『平安遷都千百年記念祭協賛誌』(正木彰家文書 長岡京市教育委員会蔵)より

 

【右】明治26年7月『平安遷都記念祭・第四回勧業博覧会聯合計画豫定大略』(中山弥太郎家文書 長岡京市教育委員会寄託) 【左】明治29年『平安遷都千百年記念祭協賛誌』(正木彰家文書 長岡京市教育委員会蔵)


山階宮晃親王

 (宮内庁宮内公文書館蔵・識別番号44216『晃親王御年譜』より)

宇田淵(個人蔵)