三思一言竹アラカルト⑸ 2021.06.30

竹の子栽培と販路

◆「肉豊にして美味」~ふっとりとして柔らか~

 前号に引き続き、『京都府農会報』第123号(明治35年刊)の記事を読み進めると、「降りて天保年代に至り、該竹より発生する筍の肉豊にして美味なるを悟り其栽培者亦拡張し・・・(中略)、維新の頃に至りては其栽培甚だ盛りに趣き」とあります。すでに文政年間には商品として出荷されていた記録があり、ここに記されるとおり、江戸時代後期から明治初めにかけて、急速に栽培が拡大したことはまちがいありません。

 乙訓筍の品質を高めたのは①下草敷・土入れ、②多量の施肥、③間伐とシンドメといった栽培技術と、土の中から掘り出す収穫技術です。評判になった筍の出荷は、京都のみならず大坂にも及ぶところとなりました。

◆鮮度が命

 竹の子は鮮度が命の商品作物で、需要と供給のバランスによって価格の高低が激しく、また気候や風雨災害の影響をまともにうけ、常に経営のリスクが伴います。明治10年代には地租改正による課税、供給過多による価格の低廉、コレラの流行等などにより一時衰退し、筍畑は茶畑に変わっていきました。

 再び竹の子の生産が盛り返すのは明治20年代の前半で、淀川の水運に加えて鉄道による輸送が軌道にのったことによります。これを確実にしたのが青物仲買をしていた三浦芳次郎(円明寺出身)で、「音伍社」という青物問屋との取引開始により、神戸以西への販路が拡張しました。これを顕彰する石碑が小泉橋西に建立されており(明治26年6月3日)、乙訓郡長荒井公木撰の碑文には、「常に大阪神戸之間に来往し、或は自ら市場を設け(中略)、此の如くは数年販路拡大、声価旧に倍せり」と刻まれています。

 竹の子の栽培は、篤農家の経験と手間が勝負。下草が藁に変わったり、土取りにユンボが導入されたりしていますが、機械化や大量生産ができない伝統産業です。厳しい労働の担い手不足もさることながら、需要の変化もさらに大きく、いかに消費者の嗜好や生活様式に合わたものにしていくのかがたいへんです。竹の子販売は仲買いや問屋を通して、味を知る青果商や料亭へ卸されていたものの、もともとは直販。昭和40年代になると農協組織を通してのトラック輸送がさかんとなりましたが、昭和50年代の宅配便普及により今はまた直売が主流。これには梱包材(段ボール)や品質防止剤の改良も大きいものがあります。さらには生での出荷ばかりではなく、明治の缶詰製造、昭和の佃煮製造、平成のパック販売など、様々な工夫が重ねられてきました。近年は軒先での「湯がき竹の子」直売も増え、シーズンには「竹の子の名産地」ならではのおいしい竹の子を、簡単に味わうことができるようになっています。

-参考文献-

・『長岡京市史』資料編三 1993年  ・『長岡京市史』本文編二 1997年 

 

向日町神崎屋(2020年)

オオタニ缶詰(2015年)

軒先販売(長岡京市開田)

軒先販売(長岡京市柳谷道)