三思一言◆ 2022.08.15

今里の山田利兵衛「農功碑」

◆石碑の建立と農会

 今里自治会館の入り口に、「山田翁農功碑」と刻まれた大きな石碑が立っています。この碑は大正5年(1916)4月、「今里倶農会」が地元の山田利兵衛の功績を顕彰するために建立したものです。文は京都府知事大森鐘一、篆書は久保雅双。もとは利兵衛の家の近く、川原久保の西国街道沿いに建てられたもので、乙訓農協(原JA乙訓支店)→今里旧事務所(現今里集荷場)と転々として、昭和56年(1981)に自治会館が新築されたのを機に、現在地へ移されました。

 農会とは、稲の品種や農具の改良。あるいは郡町村の品評会などを通して農業生産の改良を行う団体で、乙訓郡では明治21年(1888)2月に、今里の正木安左衛門や能勢清左衛門にらが中心となって結成。明治24年には京都府の農会が設立され、明治32年の農会法の公布により、町村農会を単位として、郡-府県-中央の系統農会が整備されたのです。この傘下にある乙訓郡の農会は、向日町の郡役所に事務所を設け、品評会や農談会を開催して、ますますの農業振興を図っていました。

◆老農家・山田利兵衛の人物像

 利兵衛の生い立ちや「農功」としての業績は、明治32年に京都府から褒賞されたさいの一件文書からくわしく知ることができます(京都府庁文書・明治32-26褒賞原議綴)。一部は『長岡京市史』資料編ニで翻刻され、また本文編二にも、写真入りで記述されています。ここでは利兵衛自身が詳しく述べた「履歴書」や、郡役所が作成した「山田利兵衛カ老農家ト公称セラレタル顛末」などをもとに、その人物像を紹介していきましょう。「老農」は、明治期において高い農業技術を身に付けた農業指導者の尊称です。

 利兵衛は、天保14年(1843)1月3日、伏見町の山田治郎兵衛の4男として生まれ、3歳の時、親戚の今里能勢多兵衛家の養子となりますが、幼くして養父が病気に。そのため13歳から19歳まで大原野にある耕作用唐鋤制作の農家に奉公した後、小作や山稼ぎで身を立て、両親と共におだやかな生活を送りますが、23歳の時に自分も病気になって以後苦しい生活に。しかし40歳を過ぎた明治17年、「突井戸(ツキイド)」による灌漑法に目覚め、人足を集めて指揮し、熱心・勉強のもとに収益を生み出すようになり、明治23年には負債を返却して次男と共に今里小字下田へ借住。さらに明治25年、都合により「山田」へ復籍し屋敷を構えます。

 このころ利兵衛は手広く農事に励む一方で、居住地付近の西国街道が険阻であることを憂慮して、広く有志を説得して藪地を切り払う改修を始め、明治25年12月17日に竣工。「履歴書」には、「之レカタメ道路ハ平坦ニシテ能ク燥キ、又従テ堤防モ堅牢ト相成リ、今以テ通行人ノ褒言葉受申候、右入費ハ悉皆有志金ニテ相弁シ、自分手間八九拾人分ハ無償ニテ相働キ候」と述べています。

 利兵衛がいかに篤実・勤勉な「老農」であったか、「履歴書」の文末「又先年来農商務省及京都府等より農学師ヲシテ巡回講話講話ノ法ヲ設ケラレ、種々農事上ノ学説等ヲ承リ、殊ニ当府庁ニ於テハ葛野郡桂村字中桂ニモ農学校又ハ農事試験場ヲ設定セラレ、再々参観ノ上種々ノ説明為シ貰ヒ、感心致居候、之依自分義モ経験上知り得タル事柄ハ人に告ケ、自分ノシラサル事ハ教授ヲ受ケ、世人ト共ニ公利公益ノ増進セントノ決心ヲ抱キ、此節ニテハ自分次男夫婦ノ雇入女弐人ト共ニ田反別四町歩余、畑地弐反五畝歩耕作ノ傍、本村農作試験田ヲ担当致シ、色々試験中ニシテ、是レ全ク国家御保護ノ厚キ有難仕合ニ之有、家内一同相喜暮居候次第ニ御座候」を読めば、一目瞭然でしょう。

◆利兵衛の褒賞と耕作法の普及

 利兵衛が京都府の褒賞に推薦されるきっかけは、明治29年(1896)の乙訓村農会開設養産品評会褒賞授与式のことです。参考として出品されていた利兵衛の立派な稲株が、乙訓郡長の目にとまったのです。その「顛末記」の写真と翻刻を掲載しておきました。明治31年には京都府農会共進会状場で、利兵衛は「数時間ノ実験談」を演説して、参会の実業家から称賛を得たこと、これより各地有志者の訪問が絶えず、また乙訓郡各村の農会の品評会や農談会に時々出席してその耕作法が普及したことなど、その活躍が具体的にわかります。

 特に隣の葛野郡農会との関りは深く、副会長中路俊六は再三利兵衛の話しを聞き、「年中行事」(1年の農事サイクル)を印刷して、郡内各戸に配布したことも記されています(この「年中行事」は、明治32年2月発行の『京都府農会報』第79号に掲載。『長岡京市史』資料編三に翻刻文あり)。

 「山田翁農功碑」が建立されたのは、それから15年後の大正5年。なぜこの時なのかを考えてみましょう。実は、前々年の大正3年が大凶作の年で、今里でも小作層が困窮して村中騒然の事態に陥りました。「農会報」第79号の記事には、「本年の如く幸いに豊穣の年柄には普通の稲作と著しく収穫に差異なしと雖とも、同氏においては仮令凶歳に遭遇するも通年相当の収穫を得らると云ふ。之れ実に農事の主眼にして尤も改良の必要たり」とありますので、この凶作に直面する中で、改めて利兵衛の農法が見直されたのかもしれません。また大正3年12月に、物集女・山本新次郎の「旭米」顕彰碑が建立されていますので、乙訓郡内に地元の「老農」顕彰の気運が高まったこともうかがえます。

 今里で石碑が建てられたころ利兵衛はなお健在で、「齢八十に近きも、今尚農事に親しみ、日夜稲作の改良に専念し、数年来乙訓郡農会の実施来たれる稲作多収会の如き毎年出品して常に多収穫の首位を占め、その模範を示しつつ」あったということです(『京都府農会報』第309号)

 

-参考文献-

・『長岡京市史』資料編三 ・『長岡京市史』本文編ニ