三思一言 勝龍寺城れきし余話(28) 2024.07.15

中院通勝と細川幽斎-永遠の『源氏物語』-

◆通勝と藤孝の出会い

   中院家は、鎌倉時代に村上源氏嫡流久我家から分家したのに始まり、勅撰集に取り上げられる歌人を数多く輩出した家柄です。通勝は弘治2年(1556)、中院通為と三条西公条の娘との間に3男として誕生しました。三条西家といえば、特に戦国時代の実隆(さねたか・逍遙院)・公条(きんえだ・称名院)・実枝(さねき・三光院)の3代は、二条家流の古今伝授を受け継ぎ、天皇家への『源氏物語』講釈にあたるなど、和漢に精通した人物として名声を得ていました。

 通勝は永禄13年(1570)ごろから、甲斐・武田のもとから上洛した叔父三条西実澄(実枝)と親密に交流するようになります。当時15歳の通勝は、永禄13年4月1日、三条西亭に招かれて実澄らと夕餉、翌2日は禁裏で行われた実澄の源氏講釈(帚木)を聴講といった具合です(「継芥記」)。

 通勝と細川藤孝を結び付けた人物は、里村紹巴(1525-1603)でしょう。紹巴は連歌師として三条西家に出入りし、通勝の母方の祖父・公条から『源氏物語』を学んだ人物です。通勝亭を訪れた紹巴が、信長の越前手筒山攻略を語ったりと、通勝は紹巴から様々な感化を得ていたと思われます(永禄13年4月20日条)。一方、室町幕府奉公衆の藤孝も、坂本や北野天満宮など各地で催される連歌座を紹巴と共にして、昵懇の間柄になっていました。元亀3年(1572)9月、完成なったばかりの勝龍寺城で、藤孝が所望した紹巴の『源氏物語』講釈には、末座で聴き入る通勝の姿がありました(常盤松文庫本『九条家本源氏物語聞書』)。戦に明け暮れながら『源氏物語』を熱望する若き藤孝と(当時39歳)、三条西家流の『源氏物語』後継を目指す通勝(当時17歳)との生涯にわたる友情は、このころから始まったのです。

 それから3カ月後の12月、三条西実澄(60歳)から藤孝(39歳)への古今伝授が開始されました。三条西家は宗祇より伝わった古今伝授の秘伝を受け継ぎ、実隆は後奈良天皇へ、公条は正親町天皇へ相伝した格式ある家柄。本来は実澄から子の公国へなされるべきですが、公国が若年(通勝と同年の17歳)のためいったん藤孝が預かったのです。この一部始終を傍で見ていた通勝は、ますます藤孝への尊敬を深めたことでしょう。

 天正7年から8年にかけて、藤孝は公国に返し伝授を行い、三条西家との約束を果たしています。

◆丹後蟄居の通勝と田辺城の幽斎 -『岷江入楚』の編纂-

 天正8年(1580)、通勝と藤孝にとって大きな転機がありました。通勝は女官との密通が発覚し、勅勘をこうむり丹後へ出奔。一方の藤孝も、信長から丹後・丹波平定の任をうけて宮津へ転封となります。以後通勝は、藤孝の支援をうけて、丹後での蟄居生活を送ることになったのです。

 天正14年8月13日、通勝は藤孝の重臣・松井康之の菩提寺・早雲寺(丹後久美浜)で剃髪して也足軒素然と名乗り、丹後の地で学芸に打ち込みます。藤孝は本能寺の変の後、剃髪して幽斎と名乗り、隠居城の田辺城へ。秀吉との関係をしのぎながら、ますます精力的で幅広い学芸活動に没頭。天正15年(1587)、三条西家の古今伝授継承者・公国が死没したため、翌年に三条西家の縁者・通勝が、幽斎から古今伝授をうけました。

 このころから通勝と藤孝は、かねてよりの宿願である源氏物語の注釈の集大成・『岷江入楚』55巻の編纂にとりかかります。作者・通勝の序文と、発案・幽斎の跋文を読めば、二人の熱情と信頼、二人の教養と研鑽によってこの大著が生まれたことが伝わってきます。幽斎は跋文(後書き)の最後を「楚に入りて底無きは老人の硯滴(ケンテキ)」と結んでいます。「底のない『源氏物語』の大河へ、硯の水の一滴を垂らすようなものであるが広く世に伝えるために」と、慶長3年(1598)7月に一応の完成としました。

 中院文庫(京都大学附属図書館デジタルアーカイブ)から序文の翻刻と、跋文の読み下し文を掲載しましたので、興味のある方は参考にしてください。

 ◆「関ヶ原」の絶体絶命とその後の八条宮サロン

  『岷江入楚』完成の翌慶長4年、朝廷の学芸高揚を図る後陽成天皇のもとで、通勝は勅勘を許されて京都に還ることになります。その時に二人で交わされたのが、幽斎「忘るなよ翼ならべし友鶴のひとり雲居に立ちかえるとも(忘れないでおくれ、翼を並べた仲の良い友人が、たとえひとり宮中に立ちかえることになっても)」、通勝「帰るべき雲居にたどる友鶴のもとの沢辺を立ちははなれじ(宮中に帰っても私は決して丹後のことは忘れません)」の歌(衆妙集)で、並々ならぬ二人の友情の深さがよくわかります。

 そのころ幽斎は、古典の講釈のため八条宮家に頻繁に通っており、さっそく通勝もこのサロンに仲間入り。慶長5年3月からは、幽斎の八条宮智忠親王への古今伝授が開始されました。ところが豊臣方と徳川方の不穏な動きが露呈した5月、古今伝授を中断して幽斎は田辺城へ。7月には豊臣方の田辺城攻めが激しくなり、死を覚悟して籠城する幽斎に対し、後陽成天皇は二度にわたり和睦を勧めました。しかし幽斎はこれを受け入れず、「いにしへも今もかわらぬ世のなかにこゝろの種をのこすことの葉」の和歌、智仁親王への古今伝授証明状、源氏抄箱などを使者に託しまます。これに対し三度目の勅使が派遣され、幽斎はやっと開城に応じたのです(9月12日)。これら説得交渉の中心メンバーの一人には、もちろん中院通勝がいました。

 帰還した幽斎は、再び八条宮家に通うようになり、慶長7年には中断した智仁親王への古今伝授を再開します。「智仁親王御記」など桂宮家伝来資料(宮内庁書陵部蔵)からは、復興した禁裏和歌会の様子や、八条宮サロンでの幽斎・通勝の晩年の活躍が手に取るようにわかります。二人は図らずも慶長15年5月に通勝、同じ年の10月に幽斎と、その古典研究に生涯をかけた人生を終えたのでした。

 

-参考文献-

・国立国会図書館デジタルコレクション岷江入楚 飛鳥井雅章写 寛永20年

・京都大学附属図書館貴重資料デジタルアーカイブ 中院文庫

・日下幸男『中院通勝の研究』 勉誠出版 2013

・シンポジウム 室町戦国期の源氏物語-本の流通・注の伝播-2015年度中古文学秋季大会

・『光秀と幽斎』 ふるさとミュージアム山城展示図録 2019

 

【冒頭・吉田のしだれ桜】 丹後に幽閉されていた通勝を慰めようと、幽斎が京都吉田から桜を移し植えたと伝わる。吉田神社の神主・吉田兼見は、幽斎の親友。

【年取島】 しだれ桜のある吉田地区からすぐの舞鶴湾にある小島。通勝がここに滞在している時、幽斎が田辺城から舟で通い、夜を徹して和歌を語り合ったと伝わる。


【天橋立・智恩寺】慶長4年6月23日、幽斎は中院通勝・烏丸光広ら親しい友人8名を招いて、ここで連歌を興行。智恩寺には、この時の和歌短冊一式が残っている。