三思一言2020.02.10

岩倉具視と宇田淵の往復書簡 

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◆戊辰戦争東山道鎮撫軍

 岩倉具視の死後、明治天皇は岩倉具視に関係する文書や記録の収集を命じ、伝記が編纂されました(『岩倉公実記』多田好問編 皇后職板 明治39年)。それらの一部は、『岩倉具視関係文書』全8巻に活字化されていますので、ここから岩倉具視と宇田淵の往復書簡8点を抜粋し、二人の関係を覗ってみましょう。なお『岩倉公実記』の編纂資料(原本・写し)は現在、京都市歴史資料館(旧対岳文庫本)・海の見える杜美術館・内閣文庫・国立国会図書館憲政室等に分蔵されており、なかなか全体がわかりませんが、関連のものが2点見つかりましたので、併せて解読文をPDFで掲載しました。

 岩倉具視から宇田淵へ宛てた書簡は3点で、何れも明治元年(1868・慶応4)2月~閏6月、戊辰戦争東山道進軍中のものです。明治元年2月22日付(PDF1)の「栗園(淵)」宛書簡は、当時40歳を過ぎた淵を「其方老年にもこれあり、遠路一入(ひとしお)大義に存じ候」と気遣いの言葉から始まります。幽棲中の岩倉具視のもとに出入りした小林彦次郎(香川敬三)・北島秀朝(千太郎)・藤井九成・松尾但馬(相永)・山中静逸(献)らはみな30歳代で、岩倉具視と2歳違いの淵は年長の立場にありました。岩倉具視は「このたび参謀の任に仰せ付けられ候あいだ、なお此の末なにぶん相和し、同心・協力・成功に至り候よう、偏に奮発頼み入り候」と、同志たちと協力して戦うよう激励しています。東山道鎮撫軍は、乾退助(板垣退助・土佐)・伊地知正治(薩摩藩)・宇田淵・香川敬三・北島秀朝(千太郎)らが従軍する、まさに岩倉の側近部隊でした(「東山道御進発惣人数書」『岩倉具視関係文書二』)。

 同じ日付で、宇田栗園・香川敬三・北島千太郎ほか諸志士に宛てた書簡(PDF2)は、総督となった具視の息子2人(具定・具経)について「若年の両人容易ならざる大任といえども御奉公の筋を貫き通し、今日に至り候義は全く諸士の補翼にこれあり候」、「予は赤面ながら親子の情として高枕安くべからず義これあり候、このうえいいよ以て一同へ厚く御依頼申し入れ候」と後見を頼み、「各等其一心を自愛し、病魔の為に討死いたされずよう、国家と為す所希望候」と結んでいます。

 ◆「東京遷都」と京都留守官

  具視の不遇の時代を共にし、戊辰戦争で命をかけて戦った志士たちは、やがて岩倉具視の計らいで新政府に官職を得て、それぞれ新しい人生を歩むことになります。岩倉家の執事同様のことをしていた宇田淵は、西岡に帰って再び医者をしようと思い、暇を乞いました。しかし具視は「いやこれから御用に立たんならん場合がある」と聞き入れてくれません(『名家歴訪録』)。

 明治2年(1869)3月、天皇が再び東幸したのを機に留守官がおかれました。文字通り天皇の留守を預かる新政府の役所で、尊王攘夷派の残党や「東京遷都」に対する反対派を鎮定し、公家社会の慰撫にあたる役目です。

京都対策に腐心する岩倉の意をうけ、淵は河田景与と共に、この新設の留守官判事に就任します。明治2年から3年にかけての岩倉具視宛書簡5点(PDF4~8)は、この留守官の時に出されたものです。

 明治2年6月17日付簡(PDF5)では「天下今日之急務、虚を棄て、実を取り、倹を尚い、奢を省き、小人を遠のけ、忠良を親しむにこれありと存じ候」と人材登用について意見を述べ、この年おかれた弾正台(京都̪支台)のことや世情の議論のことなどを報告しています。

 同2年10月17付書簡(PDF6)は、「東京遷都」に対する京都市民の反発と、それに対する新政府側の慰撫のようすを記したものです。皇后東京行啓を目前にした9月24日、市民の東京遷都反対運動が最高潮に達し、町旗を掲げた数千人が石薬師門に押しかけました。「過日来、当地市民少々沸騰の気味これあり、長官公府へ御出張にて御説諭に相成り、も両日共陪従仕り候」と、このとき淵も市民の説得にあたったようすが記されています。

 しかし「東京遷都」の既成事実が進むにつれ、京都留守官の存在意義は薄れ、京都府との摩擦も大きくなっていきます。一時期は留守官と京都府が合併するという紆余曲折を経て、留守官は宮内省に吸収されることになり、明治3年12月に廃止されました。淵の書簡(PDF7・8)からは、この間の複雑な動きと、その渦中にあった官員らの心境を読み取ることができます。

◆桂宮家令宇田淵と「華族歌道講習」

 留守官を辞した宇田淵は、すぐさま桂宮家令に任じられます。明治3年12月22日、桂宮家にも留守官廃止(宮内省へ合併)の旨が告げられ、家事の進退や宮中に関することは、宮内省の管轄になると達しがありました(「桂宮日記」明治3年12月22日条)。

 明治4年正月17付多田好問(岩倉具視の側近)宛書簡(PDF9)には、「廿四日(明治3年12月)御扶持を下賜、京都府貫属士族仰せつけられ、重畳(ちょうじょう)ありがたきしあわせには候えども。不才微力・・・、道を知らず、深く恐懼(きょうく)の至りに候、右御吹聴申し入れ候、かつ桂宮家令申し付けられ候に付、日々出仕は致し居り候え共、旧弊改正の成功如何がこれあるやと、これまた恐懼の次第に候」と、着任への畏怖や不安が吐露されています。

 桂宮家令は文字通り宮家の家事全般を行うのですが、それと共に天皇の京都行幸を掌り、旧公家らの保護や皇宮保存の実行機関でもありました。桂宮邸はさながら宮内省の京都事務所となり、宮家の家来たちが淵と共に実務を担ったようすを、桂宮日記」から逐一知ることができます。

 明治11年11月26日付岩倉具視宛書状(PDF10)から、具視の意向のもと、任務遂行に励む淵の働きぶりがわかります。「閣下兼ねて御配慮なされあり候当地華族歌道講習の義、去る24日、始めて当座の義催しこれあり候に付、小生も出頭仕り候」と、その時のようすを細かに記しています。「華族歌道講習」は、京都に残った旧公家らの精神的荒廃を案じた天皇の意をうけて、具視の指揮によって始められた歌会です。東京宮内省の高崎正風や、西京華族研究会幹事の宇田淵らの連携により、京都で毎月催されるようになった歌会は、後の向陽会の活動に発展していくのです。

 

ー参考文献ー

・『岩倉具視関係文書』一~八 日本史籍協会 1927~1935年

・『京都府百年の資料』政治行政編 京都府立総合資料館 1952年

・『岩倉具視関係文書(目録)』(岩倉公旧跡保存会対岳文庫所蔵)Ⅱ 北桑社 1993年

・小林丈広『明治維新と京都-公家社会の解体-』臨川書店 1998年

・『岩倉具視関係史料』(海の見える美術館蔵)下 思文閣出版 2012年

・「岩倉具視旧蔵資料」(対岳文庫旧蔵文書目録) 『京都市歴史資料紀要』27号 2015年

     宇田淵が語る岩倉具視の人物像 →『名家歴訪録』

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『名家歴訪録』より儒家故宇田淵.pdf
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岩倉具視幽棲旧宅 対岳文庫

京都御苑 桂宮邸跡

二条城本丸御殿(旧桂宮邸) 2012年撮影