三思一言2022.04.12

山根徳太郎と中山修一 *山根の長岡宮訪問

 ◆昭和39年、長岡宮朝堂院第三堂の調査現場で

 図面を囲み、何やら語り合う面々(大阪歴史博物館で展示中)。時は昭和39年(1964)年、ここは長岡宮朝堂院西第三堂の発掘調査現場の傍らでしょう。難波宮の発見者・山根徳太郎が(中央)、長岡宮発掘中の中山修一(左端)を訪れた時の1カットです。二人の間にいるのは京都大学教授福山敏男で、昭和30年の会昌門の発掘以来、建築学教室の教官・学生らを率いて、長岡宮発掘を主導していました。

 昭和36年に小安殿と大極殿を突き止め、中山らは朝堂院の遺構を求めて、全力で取り組んでいました。そこからは難波宮式の重圏文軒瓦が多数出土し、長岡宮は後期難波宮を移建したものであることが明らかにされつつあったそのころの熱気が、この1枚の写真から伝わってきます。

◆幻から現(うつつ)の都へ-生涯をかけた遺跡の保護-

 難波宮跡は、大坂上町台地(大阪市中央法円坂)に広がる飛鳥-奈良時代の宮殿跡です。大阪に生まれた山根は、少年時代から古代遺跡に興味を持って育ち、東京高等師範学校の地理歴史学科を卒業後、高校教師や大阪市民博物館職員を経て、京都大学大学院で長い間歴史を学びました。そして大阪市立大学教授を定年退官後、開発ラッシュにさらされる難波宮跡の調査に奔走し、昭和36年についに大極殿の遺構を発見。以後「難波宮址を守る会」をたちあげ、生涯をかけ遺跡の保護に信念と情熱をかけました。

 長岡宮に出向いた山根が中山に語った言葉は、「あんたと私は、この二つの都を世間に知らせることが一生の仕事でしょう」。山根は中山より20歳以上の大先輩ですが、同じ京都大学大学院で歴史や地理を学び、二人とも民間人の立場でありながら宮都の発掘に身を投じ、しかも難波宮と長岡京は親子同然のつながりがあります。山根の長岡宮訪問は、中山や長岡宮発掘関係者に大きな勇気とエネルギーをもたらしたことでしょう。

-参考文献-

・福山敏男・中山修一・高橋徹・浪貝毅『長岡京発掘』NHKブックス74 1968年

・『難波宮』解説付新装版 学生社 2002年

・『宮都のロマン 長岡京発掘50年の成果』 京都新聞社編 2005年

・向日市教育委員会『長岡宮発掘60年のあゆみ』2015年

 

難波宮跡 大阪歴史博物館より展望

大阪歴史博物館 後期難波宮復原模型

難波宮式重圏文軒瓦


長岡宮大極殿公園

長岡宮朝堂院公園