三思一言 勝龍寺城れきし余話⑻

『舜旧記』を読む-豊国社領となった西岡の村々-

 ◆梵瞬とその日記『舜旧記』

 梵舜(1553-1632)は吉田兼右の子(兼見の弟)であり、吉田家の氏寺「神龍院」の僧です。慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が亡くなると、兼見とともに豊国廟の創立に尽力し、その神宮寺の社僧として豊国社の造営・維持に奔走します。梵瞬の記した天正11年(1583)から寛永9年(1632)までの半世紀に及ぶ日記『舜旧記』は、戦国~江戸初期にかけての政治・社会・宗教を考えるうえで欠くことのできない基本史料となっています。

 特に豊国社の創立からその廃絶をめぐる豊臣方・徳川方の動き、方広寺大仏の造立と大坂冬陣・夏陣に至る複雑な駆け引きは、この日記なくしては語れないといってよいのです。関心のある記事は数多ありますが、ここでは西岡地域という視点から、豊国社領となった村々の動きを追いましょう。さらに、細川幽斎一家との親しい付き合いの一端も付記しておきます。

◆梵舜の豊国社領支配

 慶長3年(1598)8月18日に亡くなった豊臣秀吉の遺体は、翌年の4月13日、遺命により東山大仏(方広寺)の東に聳える阿弥陀ヶ峯山頂に埋葬されます。慶長4年4月16日、朝廷から「豊国乃大明神」の神号が与えられ、18日正遷宮の後、北政所や八条宮智仁親王、そして豊臣恩顧の人々の社参が相次ぐようになり、4月と8月の年忌には盛大な祭礼も執り行われました。

 関ヶ原合戦後の翌慶長6年、豊国社に徳川幕府より1万石が寄進されたのをうけて、梵瞬は知行の在所へ入部します。8月4日は神足村に滞留し、友岡村に一宿して修理方の支配を百姓らに申し付けます。翌5日は下久世村・西土川村・菱川村を廻り、そこで晩食の後、富森村(紀伊郡)で一宿です(慶長6年8月4日・5日条)。以後豊国社修理料の領知となった村々は年貢を納め、人夫役を負担し、季節の小物成を届けることになりました。

 「豊国社領1万石」の詳細はわかっていませんが、修理料が課せられた村々には動きがみられます。慶長6年閏11月、神足の年貢が吉田兼見の知行となるので、百姓らが豊国社まで呼び出されました(慶長6年閏11月28日条)。「神足村二位殿(吉田兼見)知行分免相(年貢)」640石の納入が滞った時には、梵瞬が直接催促に出向いており(慶長8年11月11日条)、翌年の二位卿御倉入免相は450石となっています(慶長9年10月21日条)。神足村の一部が兼見の御倉入になったことは、『兼見卿記』の記事からも確認されます(慶長13年正月5日条)。

 また慶長7年7月24日条には、豊国社領1万石のうちの修理料が1000石であること、この修理料のうち友岡村200石が智積院へ祈祷料として寄進されたことが記されています。

 『舜旧記』には梵瞬が度々在所に下向し、年貢収納・百姓の逃散・水争いなどへの対応にあたっていたことが細かく記されていますので、豊国社領となった村々の具体的な動きを系統的に追える史料として、数少ない貴重な日記といえます。なお神足に下向した時に小倉神社祭礼の能を見物した様子を、「大夫播州之者之由、式三番・高砂・源氏供養・セウキ(鐘馗)・弓八幡・羽衣・老松、キリ有也」と書き留めており(慶長17年4月2日条)、神足村が小倉神社の氏子圏にあることを示す最も古い史料として注目しておきましょう。

 慶長20年(1615)、大坂夏陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康の意向で豊国社・神宮寺・屋敷等が廃されることになりました。『舜旧記』から記事を拾うと、金地院崇伝より社頭一円破壊の由が内密に伝えられ(元和元年7月9日条)、続いて京都所司代板倉勝重より神官知行召上の通知がありました(同年7月11日条)。これにより豊国社領だった西岡の村々も江戸幕府の蔵入地として返還されたものと思われます。撞鐘は智積院に移され(同年8月16日条)、神具は吉田神社へ渡され(同年8月20日条)、そして社地はすべて妙法院の管轄となり、悉く壊されたのでした(元和5年12月29日条)。

◆幽斎一家との親しい関係

 吉田家細川家は親戚関係にあり、家族ぐるみの深い絆で結ばれていましたので、梵舜もまたそのような親しい関係を大切にしました。『舜旧記』には丹後と京、関ヶ原合戦以後は豊前と京を往来する幽斎、そして豊前-京-江戸を往来する子忠興と孫忠利の動向が逐一記され、細川一家のようすを知ることができるのです。

 たとえば、智仁親王への古今伝授のため在京中の幽斎が豊国社に一宿したこと(慶長5年3月9日条)、その途中で出陣用意のため急ぎ帰国したこと(同年6月29日条)、田辺開城からまもなく京都にもどった幽斎が、早速『太平記』を読み耽ったこと(同年10月26日条)など、幽斎の行動に関わる興味ある内容が記されています。

 元和4年(1618)8月3日条には、去る7月26日に細川幽斎の妻麝香(1544-1618)が江戸で亡くなったという記事があります。麝香は幽斎が慶長15年(1610)に没した後、光寿院(法名)と称して江戸で幽斎の菩提を弔う日々を送っていました。麝香の父は、若狭熊川城主で足利義晴の近習であった沼田光兼。麝香は武士の娘らしく、勝龍寺城→宮津城→田辺城へと幽斎と行動を共にし、本能寺の変、関ヶ原合戦と細川家の危機を潜り抜けた烈女です。忠興が豊前の大名となってからは国元と京を往来し、幽斎の晩年を支えました。『兼見卿記』や『舜旧記』には活発に行動する麝香の記事が随所にあり、戦国に生きた一人の女性の姿が思い浮かび、とても興味深いものがあります。

 

-参考文献-

・『舜旧記』第一~第八 史料纂集 続群書類従完成会 1970~1999年

・新訂増補『兼見卿記』 史料纂集 八木書店 2014~2019年

 


豊国廟跡 明治30年再建 伊藤忠太設計

太閤塀 旧方広寺境内(三十三間堂南側)

豊国神社 明治13年再建 旧方広寺大仏殿跡