三思一言 勝龍寺城れきし余話(25) 2024.04.17

藤孝と市介の「無二の覚悟」-革嶋家文書を読む-

◆革嶋家文書とは

  阪急桂駅から東南へ5分、住宅街の一角に、小さな「革島城公園」があります。ここは鎌倉時代からの由緒ある武士・革嶋氏の居館があったところです(京都市埋蔵文化財研究所「リーフレット京都」№263)。

 革島氏家は、家伝によれば清和源氏の流・佐竹義季に始まります。義季は讒によって源頼朝に所領を没収され、近衛家の縁故を頼って山城国葛野郡「川嶋庄」に来ました。「川嶋庄」は南北両庄にわかれ、二代義安が近衛家から南庄下司職を賜り、革島性を名乗ったといわれます。以後この地に土着し、南北朝時代の革嶋幸政は足利尊氏にしたがって軍功を挙げ、建武3年(1336)、地頭職に補任されて幕府御家人に取り立てられました。

 以後、近代まで代々蓄積された古文書・記録は、中世においては京都近郊・西岡の国人として、近世においては郷士として、さらに近代以降は医家としての歴史を連綿と伝える貴重な記録・文書群で、京都府立総合資料館(京都府立京都学・歴彩館)に寄贈され、平成15年には、史料群の全体2459通が重要文化財になりました。

 特に江戸時代中期に2、2代瀬左衛門幸元によって整理され、「家宝遺墨」の題箋で成巻された4巻には、中世末期から織豊期にいたる中世文書36通が収められています。このうち「上」巻7通は織田信長の判物や朱印・墨印状、「下」巻6通は細川藤孝の折紙・起請文、「乾」巻12通は明智光秀・滝川一益・柴田勝家・羽柴秀吉などの書状・折紙に大別され、信長のもとでの革島氏の活躍をつぶさに伝える稀有な史料です。

 ここでは細川藤孝に焦点を当てながら、革島市介(秀存)との深い関係を示す、興味深い史料を紹介しましょう。【】内の数字は、京都府立京都学・歴彩館の目録番号で、「京の記憶アーカイブ」で写真を閲覧することができます

 ◆織田信長と松井友閑の書状

 【2-1】は、織田信長が細川藤孝に宛てた書状。冒頭の「条々」とは、永禄13年(1570)正月23日付けで、織田信長と足利義昭の印判が据えられた五ヶ条の条書き(箇条書きの文書)のことです。これは信長と義昭の連立政権の間に齟齬が目立ってきたため、それを是正しようと朝山日乗・明智光秀(当時は義昭の側近)に宛て出された取り決め。【2-1】はこの「条々」をふまえて、信長が「良く承知して行動している旨を義昭に披露してほしい」と、藤孝(当時は義昭の側近)に取次を伝えたもので、元亀2年(1571)と推定されています。

 【3-4】は、細川藤孝が松井友閑に宛てた書状。文中の「大覚寺殿御千句出座」により、元亀4年(1573)と推定されています。友閑は信長の側近で、政治面のみならず茶の湯や和歌など文化面にも長けた人物。藤孝とは以前より交流があり(「兼見卿記」元亀2年1月6日条)、この書状は、革嶋氏や滝川一益の動向を伝えつつも、藤孝の友閑に対する尊敬の念が溢れています。

 さて問題は、この2通の藤孝がらみ書状が、なぜ革嶋氏のもとにあるのでしょうか。第18代越前守一宣は、天文3年(1534)に祖父から革嶋南庄の地頭職を引き継ぎますが、三好方の押妨により一時丹後国粟田庄に撤退。しかし武将としての活動はさかんで、永禄11年(1568)信長入京さいし、細川藤孝へ「与力」したことや(元亀3年9月3日革嶋越前守宛「織田信長朱印状)、元亀元年(1570)の越前攻めの手柄により(元亀元年4月23日「織田信長朱印状」)、再び革嶋の知行を認められました (9月28日革嶋越前守・市介宛「織田信長朱印状」)。

詳細はわかりませんが、西岡における信長家臣としての革嶋氏の存在の大きさと、それに対する藤孝の認知・尊重の念をふまえることが、この不思議な伝来を理解するヒントになると思っています。

 ◆細川藤孝と革島市介の往復起請文

 第18代越前守一宣の子である市介(秀存)は、足利義輝が三好勢に敗れて近江朽木に逃れた際これに随い(「源家革嶋家之伝記」)、朽木成綱(義輝の奉公衆)から将軍の感状(軍功へのお褒め)を受けることもありました(3月4日「朽木成綱奉書」)。この義輝の朽木逃亡のさいには細川藤孝も奉公衆として随伴していますので、二人は若いころから同志として交流があったのでしょう。

 【3-3】は、元亀4年(1573)2月11日に、藤孝から市介へ届けられた書状。元亀2年に信長から勝龍寺城普請を命じられた藤孝は、ここを拠点として情勢収集にあたりつつ、各地に転戦していました。前年より信長と義昭の関係がいよいよ破綻をきたす状況の中、藤孝はこの書状で、「世の中のなりゆきはどうなることかわかりません。信長次第の内かと存じますので、当城(勝龍寺城)において今後の成りゆきを見届ける覚悟です。内々あなたもその御覚悟をお持ち下さい」と、心中を露呈。若き日からの親しき関係をふまえると、この文言の意味合いを深く考えることができます。

 【1-15】は、その5日後に、市介から藤孝へ出された起請文(案)で、「私は、今後とも無二の覚悟で忠節を致します。いささかも表裏・別心はありません」。【3-2】は、それに対して返された藤孝の起請文で、「このたびの当城(勝龍寺城)に対する無二の御覚悟、尤もなことです。本意を遂げることができたならば、ご厚誼をいただいたことは忘れません」。「本意」とは、信長への忠節を意味しており、義輝のもとで過ごした朽木時代以来の過去と決別し、二人は共に信長家臣への道を選択したのです。

 元亀4年7月10日、信長から西岡の一職支配の領知を認められた藤孝(「長岡」と改姓)は、それをうけて次々と折紙を発給し、新たな秩序形成へ取り掛かります。冒頭に掲げた【3-1】は、天正元年9月14日に藤孝から市介に出された折紙で、「この度、桂川を限る西地一職を仰せ付けられたので、東寺分を除く革嶋の領知を認める」という内容です。同様の文書は東寺宛てなど幾つか知られていますが、藤孝と市介双方で取り交わされた起請文をふまえると、一段とその意味の深さを理解できるでしょう。

 藤孝は本願寺攻めが終わると、天正8年(1580)に新たな使命をうけて丹後へ入封。市介は天正9年の「お馬ぞろえ」(宮中で繰り広げられた信長の仮装パレード)で一番手の一人として、晴れの舞台(「信長公記」天正9年2月28日条)を踏みます。共に信長家臣としての道を突き歩んでいた二人でしたが、天正10年の「本能寺の変」で、それぞれ思わぬ運命に・・・。藤孝と市介、細川家と革嶋家は、またまた試練の時を迎えることになるのです。

 

-主要参考文献-

・『革島家文書』について 京都府立総合資料館 1975年

・資料紹介「革嶋家文書(一)」『資料館紀要』第5号 京都府立総合資料館 1977年

・資料紹介「革嶋家文書(二)」『資料館紀要』第6号 京都府立総合資料館 1978年

・資料紹介「革嶋家文書(三)」『資料館紀要』第25号 京都府立総合資料館 1997年

・『重要文化財指定記念 革嶋家文書展』 京都府立総合資料館 2003年

・『長岡京市史』本文編一 1996年