三思一言◆ 2023年8月29日  (大原野正法寺において講演要旨)

桂昌院の生涯と金蔵寺・善峯寺の双子堂

1.桂昌院の出自と家族

⑴謎の出自を探る主要研究

 江戸幕府三代将軍家光の側室にして、5代将軍綱吉の生母・桂昌院は、元禄の天下泰平を名実ともに動かした、花も実もあるスーパーウーマンです。なによりも、身分の低い町人の家から身を起こした「玉の輿」ものがたりは、今でも多くの人が関心を寄せています。

 しかし『徳川実記』(徳川家の正史)の桂昌院に関する記述は簡単で、なにしろ当時の資料は「皆無」といってよく、その信憑性をめぐって諸説・俗説入り乱れ、「本当のところは・・・」に近づくことは容易ではありません。桂昌院はどのような生まれで、どのような経過で将軍の側室になったのか。ここでは、そのことを真剣に調べた業績を、二つ紹介しましょう。

 まずは、桂昌院の弟・本庄宗資の子孫である宮津藩主によって行われた、嘉永年間の家譜編纂です。命を受けた家臣の山本久淳は、京都の公家や金蔵寺・善峯寺、槇尾西明寺などを訪ね歩き、または書簡を取り交わして桂昌院や宗資のルーツを調べ、「本庄家譜」・「御先祖取調」・「本庄家祖先に関する覚書」・「二条家御文庫之内御外戚伝本庄部」などをまとめました(舞鶴市糸井文庫)。これらの中で最も注目されるのは、「竹田村河村一衛門日記書抜」(以下「河村隆永日記抜書」)5冊。これは、本庄宗資の家来・河村一右衛門隆永の日記58冊(寛文2~享保17年)から、桂昌院や本庄氏に関わる主要記事を抜き書きしたもので、原本に忠実、且つ系統的であり、他に類をみない貴重な史料です。

 二つ目は、歴史考証家・湯本文彦の金蔵寺と善峯寺の寺誌稿本です。これは、明治24年(1891)から京都府が進めた編纂事業でつくられたもので、開創・由来・沿革・什宝・古文書等、資料に基づいた詳しい記載が特徴です。特に金蔵寺と善峯寺では、桂昌院と本庄一族について「ここまで書くか」と驚くほど念を入れた内容があり、湯本の学究肌の人柄をよく表しています。

 ⑵謎に包まれた桂昌院の父と母

 湯本文彦の記述をもとに、桂昌院の父と母、そして一族の関係を図に示してみました。歴史家といっても、戦後の科学的な歴史叙述とは次元が異なりますので、今の私たちが受け止めるのことはむずかしいのですが、それでもこれほど考え抜いて書いた人はいませんので、まずはここから出発するほかありません。

  父は太郎兵衛宗正。宮津本庄家譜調査によればもとは侍で、牢人となって転々と流浪したようで、一時善峯寺にて恩を受けました。最後は堺町丸太町付近で野菜を売り捌いていたとあります。寛永13年(1639)没。

 母は於栄で、宗正の後妻。宗正との間には三男三女をもうけましたが、図には特に桂昌院と関りのある兄弟を示しました。御栄は困窮のため、しばらくの間子供らを連れて善峯寺に身を寄せました。寛文3年(1663)に境町丸太町の屋敷から江戸へ移り、延宝元年(1673)没。

 宗正の先妻が御符(「河村隆永日記抜書」にヲフリ)。宗正と別れた後に二条家へ仕え、父を失った吉(桂昌院)を引き取って養育し、吉を二条家へ奉公に出しました。慶安2年(1649)没。

⑶桂昌院の兄弟

 父の先妻・御符は、幼い吉(桂昌院)の大恩人。家光の側室に入るため、京都から輿入れするお万(六条家の女)に随行して江戸に向かった吉は、まもなく自身が家光の側室となり、玉とよばれます。この時、恩人の御符の子・道芳を武士に取り立て、家光から本庄の姓と4000石が与えられました。

 異母弟の本庄宗資も、18歳にして家光から4000石、後には綱吉から加増されて笠間藩主となり、異例の立身出世。綱吉側用人の地位にあり、また桂昌院の意向を実行する分身的存在として活動しました。

 姉の菊は、夫の山科宗賀共に京都三本木の桂昌院御用屋敷付近に住し、江戸からの意向をうけて本庄一族の法事を取り仕切りました。宗賀の死後、菊は江戸へ移り、綱吉から3000俵の扶持を受け、元禄7年に死去。

 喜明は幼くして父母を失い、宗正が養育。善峯寺成就坊賢弘のもとで剃髪し、比叡山や近江で修行。万治2年(1659)からは桂昌院に乞われ、母・於栄が帰依した金蔵寺の一坊に住持しました。貞享3年(1686)2月死去。

 

2.桂昌院の私的な普請とその意味

⑴金蔵寺・喜明の死と、「両山大切」の仰せ

  父や母らの供養を託していた喜明の死をうけ、桂昌院は喜明を中興の祖とする金蔵寺・善峯寺の再興に乗り出します。貞享3年(1686)閏3月29日、本庄宗資をとおしてその意向を両寺に仰せ伝えたのが、「因州殿(本庄因幡守)たてまつる所の定め書」(善峯寺文書)です。ここには、①「観音堂への仏供と祈祷を怠らないこと」、②「善峯寺と金蔵寺は由緒があり大切に思っているので、後までも変わらず懇意にしたい」、③「喜明の掟を守ること。喜明の行いは殊勝なので、ひとしお両山を大切に思っている。したがって両山のために、喜明を中興の御坊とする。父・母・義母・義兄へ、毎日の供養をすること」の3点が明記されています。

⑵桂昌院の分身・本庄宗資とその家来

 桂昌院の意向をのもと、さっそく金蔵寺では仁王門や経堂、善峯寺では鐘楼の造営が始まりました。貞享3年5月には、桂昌院迁修の本庄家一門の石塔が石屋に注文されていますので、造営に合わせて墓所も整備されたのです(河村隆永日記)。

 これらを実際に行ったのは、京都三本木の桂昌院御用屋敷に勤める河村一衛門隆永、井川喜兵衛、木下清兵衛ら、本庄宗資の家来たちです。金蔵寺と善峯寺には、桂昌院の意をうけた本庄宗資の心のこもった書状が数多く伝わっており、江戸と京都西山を往復して、前代未聞の両寺造営に奔走した家来らの働きぶりも、文面から如実にうかがうことができます。

⑶金蔵寺・善峯寺の双子堂造営

 金蔵寺(奈良時代創建)は十一面観音、善峯寺(平安時代創建)は千手観音を本尊とする、由緒ある天台宗の山岳寺院です。元禄4年閏8月、桂昌院は両山の本堂を規模や仕様が全く同じの双子堂として、同時に造り変えることを仰せ渡しました。三本木の御用屋敷では仕様書を作成し、入札・請負→普請場(光明寺東の芝と灰方の2か所)→釿始め→上棟と、工事は急ピッチで進みました。「河村隆永日記抜書」にはこの間の経過や、棟梁・屋根・人足頭・車力・石切・左官・錺屋・木挽・鍛治などの諸職人のことまで、くわしく記載されています。

 いよいよ元禄6年3月、完成したお堂で御開帳が始まりました。その様子を知らせた金蔵寺に対し、本庄宗資は祝いを述べ。「たくさんの参詣だそうで、私がそちらにいたならば、ぜひご本尊に参拝したいというだろう」と付け加えています(金蔵寺文書)。

 ⑷一族供養と自己実現

 金蔵寺・善峯寺の双子堂完成の翌年、元禄7年からは今宮神社の造営が始まりました。元禄9年の上棟式は、それはもう盛大なものでした。朝廷からの使いが「今宮は桂昌院の産土神」と宣命を読み上げていますので、桂昌院一族が今宮の氏子圏(聚楽・西陣)にいたことは、まちがいありません。

 しかし、それからまもなくの元禄12年8月、本庄宗資は病気のため江戸で亡くなりました。その直後、桂昌院は本庄家とゆかりの深い槇尾山西明寺を造替し、宗資の3回忌を執り行っています。

 母や兄弟と共に貧しい少女時代を過ごした桂昌院にとって、父・母や兄弟の一族を供養することは、自分の生い立ちを肯定するうえで、ことのほか意味が大きかったことでしょう。他の幕府の造営と異なり、金蔵寺・善峯寺(本庄一族の墓所)、今宮神社(産土神)、槇尾西明寺(本庄家法事寺)が、桂昌院の特別な私費のもとに行われたことは明らかです(「河村隆永日記抜書」元禄16年3月20日条)。

 それでは、桂昌院は「晩年に一族の菩提を弔った健気な老母」としてだけイメージしてよいのでしょうか。いいえ、法隆寺伽藍の中央に聳える大きな桂昌院灯籠からは、自分の出自を克服して自己実現を遂げた、力強い女性の姿が浮かび上がってきます。名実ともに「天下泰平」の世を動かした桂昌院の実像を探るために、金蔵寺・善峯寺の双子堂造営とその関連資料の研究は、とても興味深くて大きな意義をもっているといえるでしょう。

 

ー参考文献ー

・城市智幸・永井規男「金蔵寺・善峯寺の双子堂の同時造営について-桂昌院とその建築 その1-」平成27年度日本建築学会

 近畿支部研究発表

・城市智幸・永井規男「今宮神社の元禄造営について-桂昌院とその建築 その2」平成28年度日本建築学会近畿支部研究発表

糸井文庫「河村隆永日記」糸井文庫書籍閲覧システム 立命館大学アート・リサーチセンター

・湯本文彦「京都府寺誌稿」のうち善峯寺・金蔵寺 京都府立京都学・歴彩館蔵

・母利美和「善峯寺実相坊賢良日次 元禄5年11月~同7年12月」 京都女子大学大学院研究紀要 第22号 2023年


善峯寺本堂

金蔵寺本堂


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善峯寺 本庄一族墓所


斑鳩法隆寺の桂昌院灯籠(伽藍中央)

桂昌院灯籠の銘文 「元禄七年」「母儀桂昌院本庄氏」