三思一言◆ 2018年11月10

細川藤孝と大原野千句

◆「大原野千句」へのタイムトンネル

 大原野神社をすぎ、しばらく西へ歩むと勝持寺の境内です。木立を分け入り、まずは応仁の乱の兵火からただ一つ焼け残ったという仁王門。小塩山大原院勝持寺は、奈良時代創建と伝える洛西きっての古刹で、承和5年(838)には塔頭四十九院が建立されたといわれています。江戸時代初めの境内図をみると、この仁王門の側には法浄院・谷坊、ここから奥へ参道に沿って左手に松林院・正行坊・本覚坊・無量寺院・阿弥陀坊・岡之坊、右手に浄瑠璃院・千手院・法輪院、佐江野(冴野)沼の奥には不動院・法性院・圓明院・上之坊の跡地が示されています。応仁の乱までは、確かに多くの塔頭がひしめき合う、噂どおりの大寺院だったのです。

 今もなお、参道のそこかしこに残る石垣の痕跡を辿りつつ、応仁の乱から100年後の元亀2年(1571)、ここ勝持寺で興行された連歌会の世界へタイムスリップしましょう。平安末期に成立した連歌(五七五句、七七句を交互に100句連ねる文芸)は、室町時代後期になると作法が調えられ、将軍や大名、僧侶や公家らの間で大ブームとなりました。このころの連歌会は一般的には十数人が集い、座の設営・接待には連歌師とよばれるプロがあたります。

 「大原野千句」とよばれる勝持寺の連歌会は、元亀2年2月5日~7日にかけ連歌師里村紹巴と細川藤孝が催したもので、そのときの懐紙10冊(1冊百句、10冊で千句)と連歌記が、なんと清書された原本のままに伝わっています(勝持寺伝来の経過は「細川家記」にくわしい)。

 ◆連歌座の面々

 座人数は13人~14人で、会席には「狩野元信筆天神の御影」が懸けられました。主要メンバーは里村紹巴・細川藤孝のほかに、聖護院門主道澄・三条西実枝(実澄)・飛鳥井雅敦、里村昌叱(紹巴の弟子)・津田宗及(堺の茶人)らがそろいました。紹巴は永禄12年(1569)8月に勝龍寺において、さらに天正5年12月の勝龍寺城新造御殿における藤孝の連歌興行を主催しており、大原野千句においても各回11句と、リーダーとしての存在を発揮しています。そして三条西実枝は、後に古今伝授を伝えて藤孝の師となる重要人物です。当時9歳の熊千代(後の忠興)も、第6回と第8回~10回においてそれぞれ2句づつ加わり、藤孝の重臣松井康之や米田求政の句も追記されています。

 ◆いざ、西岡の支配へ

 藤孝は大原野千句終了後、2月9日には勝龍寺に帰城しています(兼見卿記)。この年5月から8月にかけて公家・武家の人々が頻繁に勝龍寺を訪れていますので、ここが藤孝の拠点として定まっていたことがわかります(元亀二年記)。そして10月にはいよいよ勝龍寺城の大普請に乗り出し、桂川より西の在々所々からの人夫徴発を織田信長から認められました(細川家文書)。いざ、西岡の支配へ。

 

 -参考文献-

・『未刊「乙訓郡誌稿」史料篇』向日市文化資料館 2017年

・藤井譲治編『織豊期人物居所集成』思文閣出版 2011年

・『細川幽斎 戦塵の中の学芸』笠間書院 2010年

 

☆元亀2年大原野千句 一覧表

日付 賦物 発句 人数
2月5日  第1 賦何路

13人

 同  

第2

賦何人 飛鳥井中将 14人
 同   第3 賦何衣 紹巴 14人

2月6日 

第4

賦何船 心前 14人

 同  

第5

山河 紹巴

14人

 同  

第6

二字返音 宗仍

14人

 同  

第7

何墻 玄哉

14人

2月7日 

第8

初何 昌叱 15人

 同  

第9

何水 藤孝 15人

 同  

第10

唐何 三条大納言 15人

 

戦国の争乱をも睨み続けてきた仁王さん。痛々しく傷ついても、なお迫力満点の風貌。

勝持寺境内をめぐる石垣・石塁。鎌倉~室町時代の遺構も発掘されています。京都市埋蔵文化財研究所「勝持寺子院跡の発掘調査」