三思一言◆ 2019年09月11

柳谷観音の縁日と柳谷節

◆御本尊十一面千手観音菩薩

 「柳谷かんのん」の名で広く信仰を集める楊谷寺の御本尊は、平安時代後期作の千手観音菩薩です。平成9年(1997)、この御本尊の修理が行われた際、胎内から鎌倉時代に修造されたさいの願文や勧進結縁奉加状が収められているという、驚くべき発見がありました。願文には「衆生お利益せんとちかひて、たなこゝろ(掌)をあわせ、名号をとなえて念願せらるべし」、「承元4年(1210)10月18日、柳谷千手観音の修造を奉り、奉納の結縁に合力した人は上下合わせて200余人」とあり、銭や白米を奉加した人々の名や金額が連記されていたのです。とりわけ「柳谷千手観音」と明記されていることは、楊谷寺の平安時代創建という由緒や、古くからの観音信仰の広がりを裏付ける根本資料といってよいでしょう。

 戦国の争乱後、慶長年間に山崎妙喜庵の芳室士荃が楊谷寺の復興に取り掛かります。さらに、元禄年間に入寺した量空是海は信望厚く、洛中への托鉢や本尊の開帳をとおして、柳谷観音への信仰を確たるものにしました。最も有名な霊験談が、霊元上皇の眼病を祈祷によって治癒させたことで、以後皇室からも尊崇をうけるようになります。元禄7年(1694)の御開帳を先例として、享保3年(1718)、寛延3年(1750)、天明2年(1782)、文化11年(1814)と、33年目ごとに御本尊開帳が行われ、眼病平癒に御利益がある柳谷観音の名声は、いよいよ高まっていくのです。

 

◆摂津加茂組心願講

 こうした御開帳とともに、柳谷観音への信仰を支えたのは、近畿一円に結ばれた「柳谷講」の存在でした。各講には御本尊の模作が下され、毎月十七日に講員が集まってお念仏を執行することが定められており、縁日には交代で代参に向かったのです。

 講が結ばれた経緯や運営は、それぞれの事情により異なりますが、ここでは、摂津加茂組心願講について紹介しましょう。この講については、西宮市立郷土資料館の井阪康二さんが、心願講の導師をしていた人から聞き取り調査を行い、研究報告としてまとめておられます。それによれば、心願講は元治2年(1865)、上加茂村(現川西市)の阪本惣左衛門が発起し、自ら講元となって柳谷観音の信仰を広め、池田市・宝塚市・西宮市・伊丹市など89ヵ村に及んでいました。そしてこれらの組を十幾つかに割り、各組ごとに組長や世話人をおいて、講を運営していたのです。

 その次第は、毎年1月17日に講元で初講があり、柳谷観音・弘法大師・西国三十三ヵ所の掛け軸を掛けて祀り、それぞれに御膳を備えます。そして2月より4月の初めまで各村を回りました。井阪さんは、各村での座ようすや定式を丁寧に聞き取り、記録されています。オヤマ(楊谷寺)への講参りは4月13日で、500人の大勢が参るので、この日は他の講の参詣をお寺で止めていたそうです。その昔は淀川を舟で上り、大山崎からオヤマまで歩き、新京阪長岡天神駅ができてからは、そこから歩く泊り講(定宿は玉屋)です。昭和30年ころからは、縁日の17日にも参るようになりました。

 地元での講や、縁日に代参したときには、「おつとめ」(回向文・念仏・御詠歌が混じった独特の節)を、鉦や拍子木を交じえて奉納します。縁日には各地から講が集まり、それぞれが交代で御本尊の周りを陣取って「おつとめ」に励み、さながら念仏合戦のようだったそうです。心願講の「おつとめ」は、その全文ばかりではなく採譜もされていて、とても大切な記録となっています。

 現在、柳谷節とでもよぶべきこの独特の「おつとめ」を奉納する講はなくなりましたが、2012年と2013年に撮影させていただきましたので、少し紹介しておきましょう。→YouTube 柳谷観音の縁日と柳谷節

 

◆昭和4年の「楊谷寺全図」

 柳谷の参詣講は、大正~昭和にかけては300を超え、登山鉄道の計画も進められるほどの盛況でした。このころのようすを描いた境内図をみてみましょう。

 まず、山門の左側、石垣の上に建つ長屋は、眼病平癒祈願のため何日も泊まり込んで「おつとめ」をする人(オコモリサン)のための建物で、右側の茶所とともに、庶民信仰によって支えられた楊谷寺ならではの雰囲気です。中央に本堂、右の阿弥陀堂、左に玄関・庫裏・書院が回廊でつながり、参詣者が目指した独鈷水の湧出所が、庫裏の隣、山道沿いにあります。

 これら江戸時代に建てられた諸堂のさらに奥、小高い山腹にみえる上書院と奥之院は、近代になって拡張されたものです。上書院は明治後期に庭園の改修と共に整備されました。上書院と回廊でつながる奥之院は、昭和4年(1929)に2代稲垣啓二が施工したもので、御本尊は中御門天皇奉納の観音菩薩です。本堂から書院へ、庭園のなかを上書院から奥之院へ、そしてあじさい回廊を登って奥之院へめぐると、京都・大坂・兵庫などの講中で満ち溢れた、当時の活況が目に浮かびます。

 奥之院ができた直後に発行された絵葉書セット(向日市文化資料館蔵「昭和新聞資料」)も、このころのようすを伝える貴重な写真です。門前に摂津加茂組信心講の定宿となっていた玉屋や、大正期の府道開設のさいに開業した旭屋がならんでいるようすがみえます。

 参詣講というかたちはなくなりましたが、現在でも毎月の縁日には、由緒深い眼病平癒・諸病平癒・諸願平癒の御利益を求めて、たくさんの人々が訪れます。長い時間のなかで積み重ねた独特の伽藍や寺宝に触れ、紅葉・あじさいと四季折々の風光を愛でる若い人の姿をみつつ、いつまでも柳谷の観音さんが多くの庶民で賑わってほしいと願っています。

 

-参考文献-

・田中淳一郎「楊谷寺の復興と観音信仰」『長岡京市史』本文編二 1997年

・井阪康二「摂津加茂組心願講」『研究報告』第四集 西宮市立郷土資料館 1998年

・『長岡京市の寺社』 長岡京市史資料集成2 長岡京市教育委員会 2000年

 


昭和4年 楊谷寺全図 (楊谷寺蔵)

向日市文化資料館蔵

門前より全景

本堂


勅建四脚門

御供水湧出所

奥ノ院