三思一言◆ 2023年10月17

聖蹟ブームと「奥の院」ー大正の「乙訓名所図絵」ー

 ◆「天皇家ゆかり」の由緒と新しい波

 楊谷寺は創建以来、天皇家と深い関わりのあるお寺。縁起によれば、古くは近衛院(平安時代後期の上皇)から「西清水」の勅額を賜ったといわれています。そのご利益は江戸時代になっても宮中で信仰され、特に元禄期の霊元上皇眼病平癒の霊験譚が広まり、多くの参詣人で賑わうようになります。

 さらに上皇の子・東山天皇の后が、祈願により懐妊して中御門天皇が誕生。後に中御門院の勅により刻まれた千手観音を護摩堂に安置して、宮中からの宝物の下賜や代参が続けられました。このような由緒が、やがて近代の天皇尊崇の風潮のなかで、明治・大正の柳谷参詣ブームへとつながっていったのです。明治42年(1909)には、それまでの講を再組織して「柳谷講会」を結成。純益はすべて奥の院建造と諸堂宇修理に充て、大正2年(1913)には「柳谷婦人会」も活動を始めました。

 明治43年5月、「信徒群参」により、奥の院を境内の山腹に新築移転をする願書が京都府に提出され(京都府庁文書)、大正4年に完成しました。この時の建物の様子は、願書に添付された図面や『楊谷寺誌』に載っている写真からわかります(建造は江戸時代からの御用達・神足の大工)。しかし、この建物は大正14年5月の失火で焼失しますが、3ヶ月後の同年7月には、すぐさま本尊の仮奉安所と渡り廊下の建築に着手して再建にとりかかりました(京都府庁文書)。新しいお堂が完成したのは昭和4年(1929)、本願寺などを手掛けた名高い二代目・稲垣啓二によるものです。

◆モダン観光のうねりと「乙訓名所図絵」

  「乙訓名所図絵」は乙訓の名所を一望する、美しいカラーの鳥観図です。発行は大正15年6月、筆者は米内北斗、印刷所は大正名所図絵社。京都と大阪との地理関係がわかるよう鉄道の駅を入れていること、ご大典ブームを意識して、乙訓の名刹と共に「淳和天皇陵」・「長岡宮大極殿址」・「土御門天皇陵」・「十七士墓」の聖蹟が取り上げられていることが、この時代らしい特徴をもつ観光絵図です(裏にそれぞれの由緒を紹介)。版権をもつ会社が、希望する観光地によびかけ、応じたところにふさわしいオリジナルの表紙をつけて発行しました。例えば三鈷寺バージョンの表紙は「眺望佳境」をキャッチフレーズに、京都を見晴らす美しい絵。

 それでは柳谷観音はどうかと見ると、なんと表門にいたる石段や本堂の背後に、明治後期増築の上書院や大正増築の奥の院へ向かう回廊が描かれています。鉄道駅の開設(山崎駅・向日町駅)や聖蹟めぐりブームのなかで盛り上がる柳谷参詣の熱気が伝わってきます。奥の院は大正14年に不慮の火災で焼失しましたので、この図絵が発行された当時は再建途上。その苦難を乗り越えて堂舎を拡張していく柳谷観音のパワーが感じられ、とても興味深いですね。

-参考文献-

楊谷寺発行『楊谷寺誌』1915年